それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

頑張らない事を肯定するということ


僕は大学生時代、特に何も頑張っていなかったので、就活の時に「学生時代に頑張ったことは何か」と聞かれて随分と苦労しました。





なにせ、心底何も頑張っていないのです。部活に精を出している人や留学に行ってる人は良いなあと思いました。彼らは明らかに何かを頑張っている。それに比べて、自分の頑張って無さといったらありません。適当に遊びながら適当にバイトしていたら学生が終わってしまったわけで、何かを頑張っていたなんて口が裂けても言えません。勉強もしていません。ビジコンにも参加してません。どうすんだYO





そんな中、「学生時代に頑張ったことは何か」というこの恐怖の質問にどのように答えれば良いのか、フンフンとうなりながら頭を悩ませ、どうにかブレイクスルーを得るべく脳筋を酷使し続けた結果、ある日究極の回答にたどり着きます。それは、何かを成し遂げたかのようなドヤ顔で「私は、何も頑張ってはいません。」と回答するというもの。どういうことか。





この一言だけでは、ただの意表をついた馬鹿だと思われてしまいそうですが、この奇抜な回答をするや否や強烈なロジックで追撃し相手の脳天に痛恨の一撃を叩き込むことで面接官を圧殺するのがこの回答の真の狙いです。そこは緊張感の充満する面接室。「何も頑張ってはいません。」という受け答えが宙に浮いたその刹那、淡々としたトーンで冷静に話を続けます。「私は、何も頑張らないということを、信念を持って成し遂げたのです。頑張らないことを頑張った、とでも言いましょうか。」





唖然とする面接官に対して、悠然と足を組み、落ち着いた口調で畳み掛けます。頑張るという認識に潜む罠を指摘し、独自の理論を展開するのです。「先ず大前提なんですが、『頑張る』というのは我々にとって、極めて特殊な意味を持つ活動だと思うんです。」





「我々は、小さい時からとにかく『頑張る』ように、と教えられてきました。習い事を頑張れ。勉強を頑張れ。スポーツを頑張れ。頑張ることは無条件で正義なわけです。何かを頑張ると、親や教師に褒めてもらえますね。そうやって条件付けされて来たわけです。頑張れば報酬が得られる。パブロフの犬です。」





この辺りで面接官の様子は大分おかしくなっているでしょう。ポカンと口を空けているはずです。ガン無視して続けます。さらにトーンを強め、自説を展開するのです。

 

「つまりですね、」





 

「『頑張る』というのは、ある種、無条件で報酬を得られる最も簡易な手段として脳の中にインプットされるわけです。頑張ることと、褒められること。この2つが極めて強い相関関係にあると、脳が無意識に認識しているのです。すると人は、頑張らなくても良い環境に放り込まれても、頑張ろうとします。頑張ることは報酬に繋がる筈だと本能的に感じているからです。むしろ、何かを頑張っていないと不安にすらなってしまいます。」





「これは『頑張る』というプロセスを褒められ続けた結果、頑張ること自体がいつからか目的化してしまった状態です。本来は目的があって、その達成の手段として頑張るが存在しているはずですが、『頑張る』ことを報酬と強く結びつけたことで、このような歪な事態に陥ってしまいます。」





面接官は開いた口が塞がらないのみならず開いた口からダラダラとヨダレを垂らしているでしょう。一切の躊躇無く続けます。「私も、大学に入った時、危うく『頑張り』かけてしまいました。周りには部活や勉強や何かを頑張っている人がたくさん居たからです。」



「頑張る人を見ることで、本能的に、何かを頑張らないといけないんじゃないかと思いました。とにかく頑張っていないと落ち着かない。しかしですね、そこで安易に頑張ってしまうことなく、私は信念を持って、『頑張らなかった』のです。『頑張っている自分』になりたいという理由だけで闇雲に頑張るということに対して、大胆に疑問を投げうった。後天的に獲得した本能に、立ち向かったのです。」





「良いですか。殆どの人が頑張っている中で、全く頑張らないこと。これには相当な『気概』『情熱』が必要です。頑張らない奴の方が特殊なわけです。頑張っていない状態を身体が感知すると、言いようの無い不安が押し寄せてきます。何かを頑張っていれば押し寄せてくることの無かった不安達が、嵐のように押し寄せてくるのです。」





「私はこれら押し寄せてくる不安から一切逃げることなく、阿修羅となってそれらの前に立ちはだかり、真正面からガップリ四つに組み合いました。具体的に何をしたのか、とにかく『何もしなかった』のです。そしてひたすら脳内に押し寄せてくる不安を、ひたすら脳内で払拭し続けました。血で血を洗う死闘です。」





このあたりで面接官は泡を吹いて倒れているでしょう。無視して続けます。「あの時私に『信念』が伴っていなかったら、不安に押しつぶされて何かしらのアクションを起こしてしまっただろうと思います。とにかく英語の勉強だとか、とにかく資格を取るだとか、『頑張り』に逃げていたことでしょう。しかし私は逃げなかった。孤独な戦い。私を支えたのは、私の不屈の精神力だったのです。」







ここでゆっくりと立ち上がって腕を組み、倒れた面接官の周りを歩きながら眉一つ動かさず無表情のまま続けます。「面接官さん。何も頑張らないことによる『不安』の、本当の恐ろしさを知っていますか? 不安というのは単調にではなく、波を打つかの如く押し寄せてくるのです。大きな不安が押し寄せてきた次の日、不安は一度静まります。しかしさらにまた次の日、前回よりも大きな不安が押し寄せてくるのです。私は、不安が『波動』であることを実感しました。それは確実に振幅と波長を伴って押し寄せてきます。そう、丁度、便意と同じようにね。」





面接官は白目を引ん剝いてピクピクとケイレンしています。失禁もしています。つまりこの時点で誰もこの『不安の波動説』を聞いていないわけです。しかし今やオーディエンスなど、二の次三の次。さらに語気を強め、鼻息を暴発しながら続けます。「不安の波を乗り越えるたび、次に襲って来る不安の波を想像して、怯えます。次は、この波よりも大きな波が襲って来る。次は不安に飲み込まれてしまうかもしれない。圧倒的な不安を目の前にすると、自我が崩壊し、不安を払拭する為に我を忘れてがむしゃらに頑張りたいという気持ちが現れます。とにかく学生団体を立ち上げたい、とにかく自分を磨きたい、そう思います。」





「しかしね、何度も不安の波を乗り越えている内に、不思議な感覚になってくるんですよ。次の波はどんな波だろう。もっと凄い波が来るんだろうか。もっと恐ろしい波が来るんだろうか。見たこともないような波が押し寄せて来て、私を押しつぶしてしまうんだろうか。さあ来い。来てみろ。もっと来い。もっと来るんだ。」





「いつからか、ビッグウェーブを前にして恐怖ではなく言いようの無い興奮を感じている自分が居るんです。何て言うんでしょう。サーファーズ・ハイみたいな状態が訪れるんです。いつしか波の大きさは、そのまま快楽の大きさへと繋がっていく。自分を今迄まで苦しめていたものとの、奇跡の調和です。恐怖と快感は表裏一体だったことを知ります。」





面接官の鼻の穴からは、血が垂れています。耳や目やつむじからも血が吹き出ています。血まみれです。その流血をピチャリと革靴で踏みしめながら無視して続けます。「ここまで行った時に、自分は何かを超越したことを感じました。もう、『頑張らない』ことで押し寄せてくる不安なんぞでは、この私を飲み込むことは絶対に出来ない。自分を縛り付けて来た不安に、勝利したわけです。いつしか心の平穏を手に入れ、やれと言われれば一生『頑張らない』ことだって出来る、そこまで到達しました。解脱に近い状態かもしれません。」





「不安を克服し平穏が訪れた後の世界はね、とても不思議でしたよ。それまで毎日のように荒々しい波と戦っていたのに、そこが急に『海』ではなくて『お花畑』になるんですね。ただひたすら暖かくて、穏やかで心温まる世界が続いています。永遠の愛に触れたことを実感します。」





「そこでようやく、自分は地球、いや宇宙の一部なんだと気付きました。優しさとかそういう理屈を抜きに、人の為になることをしようと思いましたね。自己というのは何かより大きな枠組みの中の一部を担っている存在でしかない、そう感じたんです。この命は何の為にあるのか。ようやくその答えが分かった気がしました。」







救急隊員が面接室に押し寄せてきて、面接官をタンカーに乗せて運びます。心肺機能が低下している。面接官は極めて危険な状況にあります。慌ただしく運ばれていく面接官。鳴り響く救急車のサイレン。彼の最期を見届けながら告げます。「勿論この壮絶な戦いの間、私が具体的に何をしているのかと言えば、家でジッとしていただけです。何もしてはいませんでした。これはあくまで内面の物語です。」





「このように私は何も頑張らなかったのです。実に空虚な学生生活でした。面接官さん、聞いていましたか?」

黒歴史を供養したい。

 


人はそれぞれに「黒歴史」と呼ばれる消したい、もう一秒でも早く記憶の片隅から消し去りたい、と思うようなそんな歴史を一つや二つ持っていることでしょう。
かくいう私も、思い出すだけでも身の毛のよだつ、机の角を噛みまくるほど赤面するような記憶があります。今回はそんな黒歴史をどうにか昇華したい、供養したいと思い、高校時代のブログを抹消し、その文章を添削し見やすくすることで、黒歴史をマイルドにしようと思い立ち、キーボードを親の仇がごとく叩きまくっています。



というわけで、お暇な方は僕の清算に付き合ってください。




-----------------------------------------------------------------

 

 

「マッチ売りの少女をタイトルを変えつつ説明してみる。」




ビジネスのバイブルとも言われている、「マッチ売りの少女」という物語をご存知でしょうか?少女がマッチを売ろうにも中々売れないという、あの物語です。



この物語のタイトルを一文字ずつ変えていき、変えたタイトルから物語の全貌を想像して強引に文章にすると一体何がどうなるのか、気になったことはないでしょうか?ありませんよね?私はありません。というか、意味がよく分かりません。



それでは原作から順にご覧頂きましょう。




 

マッチ売りの少女

 

「マッチはいりませんか。」



晦日、寒空の下で少女が通行人にマッチを売っている。父親に怒られるので、マッチが売れるまでは家に戻ることは出来ない。寒さと空腹に震えながら歩き回るも、少女からマッチを買う者は、一人もいない。







やがて少女は座り込み、寒さを凌ぐために自分のマッチに火をつけ始めた。



マッチに火がついた瞬間、少女の目の前に暖かいストーブや七面鳥、飾られたクリスマスツリーといった幻影が出現する。それらの幻影は火が消えると共に、彼女の前から消えてしまう。







ふと空を見上げた少女は流れ星をみつけ、その昔、自分を可愛がってくれた祖母のことを思い出す。



「流れ星が流れる時、誰かの魂が神様の元に引き上げられる」昔、祖母は言った。次に少女がマッチに火をつけると、目の前に祖母の幻影が現れる。



少女は祖母の幻影が消えないように夢中で全てのマッチに火をつける。幻影の祖母はマッチの光の中で少女を優しく抱き、少女はとても幸せな気持ちになる。







翌朝、凍え死んでしまった少女を見つけ、人々は可哀想な子だと思う。少女がどれだけ美しいものを見たのか想像する者は、一人もいない。

 

マッチョ売りの少女

 

「マッチョはいりませんか。」

晦日、寒空の下でムキムキの少女が通行人に発達した高背筋を見せつけている。マッチョだけが、彼女の売りなのだ。しかし父親に怒られるので、家の中で披露することは出来ない。



寒さと空腹に震えながら見せつけるも、通行人は、ただただ怯えるばかり。







やがて少女は座り込み、寒さを凌ぐために想像を絶するトレーニングを始めた。地面に寝そべり、仰向けになって両腕で近くのベンチの脚を握りしめる。



そして肩甲骨を地面につけた状態で、身体の他の部分を全て宙に浮かせた。「ドラゴン・フラッグ」



そう、これはブルース・リーが究極の肉体を手に入れるために実践したトレーニング法だ。幼くしてこのトレーニングに着手する強者は、そういない。



少女の身体が宙に浮いたままピタリと止まる。両腕の筋肉が悲鳴を上げる。腹筋が悲鳴を上げる。刹那、悲鳴をあげているのは筋肉だけでないことに気付く。通行人もだ。







ふと空を見上げた少女は、流れ星をみつけ、その昔、自分を可愛がってくれたムキムキの祖母のことを思い出す。



「流れ星が流れる時、誰かの魂が神様の元に引き上げられる」昔、祖母は言った。少女が腹筋にさらなる力を込めると、目の前に祖母の幻影が現れる。



少女は祖母の幻影が消えないよう、張り裂けそうな全身の痛みを押し殺し、無我夢中で全身の筋肉を酷使する。フルパワー、100%中の100%!



やがて地面についていたはずの彼女の肩甲骨も宙に浮き、うつ伏せの少女が触れているのはベンチの椅子の脚のみとなる。幻影の祖母は少女を優しく抱き、少女はとても幸せな気持ちになる。







翌朝、強靭な肉体を手に入れ見違える程成長した少女を見つけ、人々は恐ろしい格闘家だなと思う。その格闘家が、昨日トレーニングをつんでいた少女と同一人物だと想像する者は、一人もいない。

 

 

マッチョ牛の少女

 

「モオオオオオオ〜ン。」



晦日、寒空の下で少女が重低音の唸り声をあげている。その姿は、胴回り・足回りの筋肉が異常な程発達した牛、すなわち「マッチョ牛」である。



茶色い皮膚、小振りな角、堂々たる四足歩行。寒さと空腹に震えながら歩き回るも、マッチョ牛からマッチを買う者は、一人もいない。というか、別にその牛はマッチを売ってはいない。







やがてマッチョ牛の少女は座り込み、寒さを凌ぐために「反芻(はんすう)」をすることにした。



昼に食べ、既に噛み砕いて飲み込んだ食べ物を、胃から口に戻し、改めて噛み、また飲み込む。これは食物を昇華するための活動であり、反芻動物にとっては日常的な出来事である。



マッチョ牛の胃から、昼に食べた七面鳥や、昼に食べた暖かいストーブや、昼に食べたクリスマスツリーといった物体が出現する。それらの物体を充分に噛み砕き、そしてマッチョ牛の少女は改めてそれらを飲み込んでいく。まさに反芻だ。







ふと空を見上げたマッチョ牛の少女は流れ星をみつけ、その昔、自分を可愛がってくれた祖母のことを思い出す。



「流れ星が流れる時、誰かの魂が神様の元に引き上げられる」昔、祖母は言った。次にマッチョ牛が反芻をしようとすると、彼女の胃から祖母が現れる。



マッチョ牛の少女は、祖母の幻影が消えないように夢中で反芻を続ける。幻影の祖母はマッチョ牛の少女を優しく抱き、マッチョ牛の少女はとても幸せな気持ちになる。







翌朝、寒さに耐え引き続き堂々と闊歩しているマッチョ牛を見つけ、人々はさすが牛だな、と大いに感心する。



今日もミュンヘンの朝は平和だ。




 

マッチョ牛のShow Time

 

「ladies and gentlemen, boys and girls」



晦日、寒空の下に集まった50,000人の観客を前にして、恒例の野外フェスが始まろうとしている。



雪を物ともせず詰めかけた観客達の興奮が熱気となり、それが充満する会場。時刻は23:57。今年も、もう終わろうとしている。ステージが照らされ、そこに一頭の牛が現れる。







それは筋肉質で、優雅な牛。マッチョ牛だ。50,000の群衆が声を上げ、地響きが鳴り渡る。今年の終わりを告げるShow Timeの始まりだ。全身の血が滾っていることを実感する。皆、握りしめた拳を、天に高々と突き上げている。



「火を灯してくれ」



マッチョ牛が言うと、群衆はそれぞれのマッチに火を灯し、それを天に掲げる。本物のマッチョ牛を目の前にして、会場にいる全員が、生きる意味を実感してい:ぐぁれおgかk







ふと空を見上げた少年は流れ星をみつけ、その昔、自分を可愛がってくれた祖母のことを思い出す。



「流れ星が流れる時、誰かの魂が神様の元に引き上げらHey YO」昔、祖母は言った。記憶が揺らいでいく。ライヴの途中だというのに、時間の流れが遅くなっていくのを感じる。UNKO。次第に、音が聞こえなくなっていく。少年の目の前に祖母の幻影が現れるえあ:、」ふぁうぇ



少年は幸せな気持ちんいjがgp@あlg







次のあmfwれあkgま:うぇぱ」gl

 

 

 

No マッチョ牛, No LIFE!!!




ヤッホ〜ウううう!!!!!! Hahaha〜〜!!!






 

※あまりにも途中で恥ずかしくなり精神が死にかけ、キーボードをガチャ打ちしてパソコンを舐めまわしティッシュを食いながら「鼻セレブじゃない!!!」とかいってウロウロし始めましたのでこれにて供養は完了とさせていただきます。

小学生の頃、僕は商人になりかけた。

 

商売に長けているわけでも商売への情熱が凄いわけでも商売人としての実績があるわけでもない凡夫の極みである私は、過去に一度だけ「商売人」になったことがある。今からその人生で唯一の成功体験を、ドヤ顔ベースで自慢させて頂きたい。小学生の時だ。



それは愛知県の大都市名古屋市という手羽先が自生するディストピアに存在する松原町という小さな町にそそり立つ、則武小学校(現・ほのか小学校)というこれまた小さな学校での出来事。小学校の高学年だった我々は、遊戯王というカードゲームにのめり込んでいた。一学年に25人くらいしかいない男子生徒の全員が、授業の時間以外は常にデュエル、デュエル、デュエル。朝から昼から放課後まで、男達の戦いは熾烈を極めた。



それまで足の速さや身体の大きさがスクールカーストを規定してきた空間に、突如として現れた遊戯王という新たな価値基準。私はこのチャンスを逃すまいと必死に戦った。メカ・ハンターを生け贄に捧げてデーモンの召喚を繰り出し、相手のヂェミナイ・エルフを攻撃!!相手の万能地雷グレイモヤに対して盗賊の七つ道具ゥゥゥゥう!!!!


 

血で血を洗う遊戯王の争いは、喧嘩の元にすらなった。ズルをしたと言って殴り掛かる者。聖なるバリアーミラーフォースを盗まれたと言って殴り掛かる者。負けそうになって殴り掛かる者。何せ、そこでは遊戯王の強さこそが人間の価値なのである。意地とプライドの交錯する教室。デッキを突き合せて戦う男達を、尋常ではない真剣さと想像を絶する緊張感が支配していた。


 

そんなある日、様々なトラブルの元になるという理由で、遊戯王カードを学校に持ち込むことが禁止された。山本先生からの突然の発表に男達は俯き、教室に沈黙が流れた。



遊戯王で確固たる地位を固めつつあった私は、教室の誰よりも焦っていた。ついに訪れた、人生で初めての栄光時代。それがこんな形で、こんな形で突然終わってしまうなんて。なんでだ。あんまりだ。


 

その日、絶望に暮れながら千鳥足で家に帰った私は、深い思案の末、紙とペンを取り出して独自のカードゲームの作成を始めた。遊戯王が禁止されてしまった今、遊戯王に変わるカードゲームを作り出さないといけない。何十枚も紙を切り抜き、一心不乱に名前と強さを書いていった。それは当時の私に言わせれば、「自分で考えた独自のカードゲーム」。カードには名前と星と攻撃力と守備力が書いてあった。星がある程度の数以上あると、生け贄のモンスターが必要、そんなルールにした。誰がどう見ても完全なる遊戯王のパクリだ。むしろ紙質以外の違いが全く分からない。著作権ガン無視のド犯罪野郎である。



ある程度の枚数が完成した後これを試験的に学校に持ち込み、山本先生に「これは遊戯王でない」旨を丹念に伝えた。先生は少し考えてから渋々了承した。試作品を、遊戯王でエース格だった数人に渡し、それで何回か遊んだ。予想を超える好感触。そこで一気にアクセルを踏み、家に閉じこもって何百枚単位でカードを作った。それを学校に持ち込み、満を持して学年の男達を全員呼び出し、盛大にカードゲームをおっぱじめる。1週間ぶりのカードゲーム解禁。名古屋市則武小学校の男達は狂喜乱舞した。想像以上の反響、教室は再び男達の熱気に包まれた。待ち望んだ戦いが始まった。最高。これは最高だ。




すぐさま、カードの供給が問題になった。カードの強さを決められるのは私だけという傲慢な神ルールになっていたので、友人がもっと強いカードを自分に渡せと次々に迫ってきた。全員の納得感を保つにはどうすれば良いのか。加えて、労働量的にも1人で絵を描いて、字を書いて、とすることに限界を感じていた。そこで、ルールを変えた。




カードの基本的なデザインやコンセプトは、各人で自由に作って良い。絵を描いて、名前を決めて、テーマを持って私というルール神の元へ、持って来る。各自が起案したコンセプトに対して、全体のバランスを見ながら私が攻撃力・守備力・効果を最終決定して記入。こういう運用になった。これが上手く回った。毎朝、皆の主張を聞きながら「ん〜じゃあ攻撃力2200で。」とコメントしていく。なにが「2200で」だ。ワケが分からない。ただ、人生で初めて帝王になったような気持ちにはなった。私は皆の納得感を保つ為に敢えて自分のデッキを弱くした。謎のバランスが保たれた。



クラスに小川君と言う恐ろしく絵が上手い男の子が居て、その子が書くイラストが人気になった。色んな人が、小川君にイラストを依頼し始めた。小川君も喜んで描いていた。毎朝、紙を切り分けて白紙のカードを大量に作成して皆に配る人もいた。戦績をメモしていく人もいた。何となく作業が分担されていった。よく分からないまま、カードゲームの世界がシステマティックになっていく。カードゲーム自体の楽しさもさることながら、その「カードゲームごっこ」みたいな全員プレーの一体感が楽しかったというのもあったかもしれない。言いようの無い、一つの“世界”みたいなものが出来上がった。それに全員で浸った。




遊戯王カードとしか言いようのないそのパクりゲームは流行り続け、いつしか本家「遊戯王カード」自体は完全に忘れ去られた。ある休みの日に、友人が遊戯王カードをたくさん渡すから自分にこっそり強いカードを作って渡して欲しい、と持ちかけてきた。この極めてグレーな取引を、モラル無き私は秒で快諾した。



何せ私から見ると、紙に絵を描いて数値を記入して渡すだけ。オウケイと言って「アルティメット・ファイヤー・マシーン」と言う名の常識はずれの実力を持つカードを作成し、彼に手渡す。生け贄無しで召喚出来る攻撃力2800のモンスターは、ゲームバランスを崩壊させるポテンシャルを持つ程の強さだ。そして彼からは随分と質感の違う、明らかに一般的な価値が高いと思われる遊戯王カードの束を受け取った。「死者への手向け」や「死者蘇生」を手放した彼は、とても満足気だった。恐ろしい取引。典型的なヤクザである。




さて、このグレーな取引を何回かしたおかげで、私の手元には恐ろしいほどの遊戯王カードがたまった。遊戯王カードは小学校ではもう流行っていなかったが、一方塾や遊び場では流行っていたので、塾という戦場においてそれらグレーなカード達が火を噴いた。自分にとっては、まだ遊戯王カードにも価値がある。



私は自分で作ったカードのゲームバランスを無視して恐ろしいカードをせっせと供給し、遊戯王カードを次々手に入れた。持続可能な発展をガン無視し、せっかく作り上げたカードゲームの世界をパワーインフレのリスクに晒し、自らの手で積極的に崩壊へと推し進めていくモラル無き強欲人間。強欲な壷。全ては、遊戯王カードを手に入れる為に。



そして物語も最終章、こうして手に入れた遊戯王カードはある日、カードゲームばかりして一向に宿題をやらない私にブチ切れた母親が、纏めて遊戯王カードを封印し始めた。こんなゴミでいつまでも遊んでいるんじゃないと怒鳴られた末、まとめられ家の奥深くに封印された。血のにじむような努力の末、イノベーティブな発想を駆使して手に入れた遊戯王カード達は、目の前に立ちすくむ「レイジング・モンスターマザー」攻撃力8200に一撃で粉砕されてしまった。何という強さなんだ。



こちらのトラップカード「泣きわめく」「暴れ散らかす」も虚しく空を切り、明らかにゲームバランスを逸脱した理不尽な能力を持つ魔人が、「真の強者」の何たるかを見せつけて来る。搾取。これは搾取だ。あんまりだ。と言うか、捨てられたカードは、元はと言えば皆のカードだ。ごめん。ほんとうにごめん。



こうして私の時代はあっけなく終わってしまった。その後何年も経ち、社会人になってものを売るという仕事をするようになった時、「アルティメット・ファイヤー・マシーン」を差し出したあの伝説の交渉をふと思い出して、我ながら常識外れのビッグディールだったなと心底感服するのであります。トレーディングの常識を覆す、価値の錬金術。一体なんだったんだろう、アレは。


ちなみに封印された遊戯王カードは高校生の頃にまた火を噴き暴れまわるが、大学で一人暮らしを始め、引っ越した際に封印をつかさどる母親によって売却された。(完)

『ドンブラコ』というワードが気になりすぎて~春~

 

『桃太郎』という作品をご存知だろうか?

唐突に失礼、ご存知かとは思いますが、ここで少しばかり『桃太郎』について軽く説明をすると、川に流れていた桃を叩き割るとそこにエスパー伊藤かの如く怪しげな人間が潜んでおり、その人間が動物の力を借りて鬼を一匹残らず抹殺するという、有名な作品だ。

 

この桃太郎という作品は完成度の高い創作物語として一定の市民権を得ているが、一つだけある深刻な問題を抱えている。それは、川へ洗濯に出向いたお婆さんが桃を見つけるあの有名なシーンにおける、桃が流れてくる様を言い表した不気味な擬態語、「ドンブラコ、ドンブラコ」である。

  
作中では特段の注釈もなく、何事もなかったかのように「桃がドンブラコと流れてきました」と書かれているが、一方、現実問題として、「ドンブラコ」などという謎の日本語は、この桃太郎という物語以外では全く聞いた事がない。ドンブラコ。桃がドンブラコ。

 
それまで気持ちよく桃太郎を読んできた読者は、この突然の「ドンブラコ」で置き去りにされてしまう。「ドンブラコ」って何だ。「桃がドンブラコ」って、どういう状況なんだ。

桃の登場シーンにおいて定番チューンかのように流された「ドンブラコ」というBGMが、実は誰も聞いたことのない狂気のワルツであるという事件。これが俗に言う、“ドンブラコ問題”である。

 

 
「桃がドンブラコ」という奇をてらったワーディングの衝撃は凄まじく、この独特のフレーズを目にするや否や、多くの読者はパニックに陥ってしまう。ど、ど、…ドンブラコ?! 

平易な言葉のみで構成された分かりやすい文章の中にあって圧倒的に異彩を放つドンブラコ。孤高のドンブラコ。Amazing DONBRA-CO。

無論、ドンブラコの覇気に押しやられ、その後の物語は、読めども読めども頭には入って来ない。鬼ヶ島なんてどうでも良い。そんなことよりも、桃は一体、どんな風に流れてきたんだろうか?やはり、きびだんごも、ドンブラコと渡したんだろうか?キジは、ドンブラコと飛んだのだろうか?お爺さんとお婆さんは、末永くドンブラコドンブラコと暮らしたんだろうか?

 

 

このドンブラコという日本語が、万が一、「桃が流れてくる時」にのみ使うことの許された擬態語なのだとしたら、その汎用性の低さたるや常軌を逸している。あらゆる日本語の中で、最も使用機会に恵まれない単語だと断定して良いだろう。

 

思い出して欲しい。あなたが日常生活を送る中で、「桃が流れてきた」なんてことは、一度でもあっただろうか?ない。ないだろう。少なくとも筆者のこれまでの人生において桃は一度も流れてこなかったし、今後も流れてくることはない。そんなシーンに出くわしたければ、桃を自発的に、積極的に「流す」しか方法はない。こんなに汎用性の低い単語が存在するなんてことは、ありえない。

 
であれば、ドンブラコというのはやはり、桃の流れる様を描写する以外に、何か他に使い道があるのだろうと推測される。日常生活で、とても自然に、違和感なく「ドンブラコ」という表現を使うことが出来る。ドンブラコに適したシーンがある。筆者の考えでは、例えば以下のようなドンブラコがありえる。

 

 

「月例の予算会議、山田はまたしてもドンブラコドンブラコと居眠りを始めた。」

 

…そう、「グーグー」や「グウスカ」といった低次元の眠りを超越した豪快な眠り、それこそがこのドンブラコ睡眠。信じられない程のイビキをかき、寝返りをうち、大声で寝言を言いながら爆睡する様、そう、その姿まさにドンブラコ!





「こめかみに銃を突きつけた齋藤は、無慈悲にもその引き金を引いた。…ドンブラコッッ!!!!銃声が鳴り響き、山田は血しぶきをあげ、肉塊となった。」 

 

…「バンッッ」では表現しきれなかった、銃声のあの、鈍く響き渡る感じ。銃弾が脳を裂きグチョっと体液が出てくるイメージをも想起させる、残酷な銃声、ドンブラコ。 マシンガンのような、連続した銃声を表現したいのであれば、「ドンブラブラブラブラブラブラブラブラコッ!」という具合に、「ブラ」を増やしていけば良いのだ。

  

  

 

「おお〜っと、横浜ベイスターズ、ここで8番の山田に代わり、代打、ドンブラコです。長打力のあるドンブラコがバッターボックスへ向かいます。」

 

…その黒人、なんと身長は2.1mで体重は165kg。恵まれた体格から繰り出される豪快なホームランで観客を魅了する、本格派外国人助っ人。打率1.9割にして、年間のホームラン数はなんと66本。長打率94%。ホームランの最大飛距離は233m。そう、彼こそがハマの巨神兵、南半球の打ち上げ花火、ベイスターズの破壊神、オドリック・ドンブラコだぁぁああああアアッッッ!!!!!!

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

 

 

桃太郎を読んだ後、読者の頭に残るのは鬼でもキジでも無く、ただドンブラコという独特な単語それのみである。「ドンブラコって、自分が知らないだけで、実は一般的に使われてる単語なのかな…?」

桃太郎という作品にはドンブラコという地雷が設置されており、それにより読者は自らの無知を疑い、恥を恐れる。その単語が、気になって気になって、仕方が無い。

 

それからと言うもの、生活のあらゆるシーンにおいて無意識にドンブラコを探してしまう自分に気付くだろう。あ、ドンブラコって、ここで使えるのかも?あ、いや、こっちの方がドンブラコはシックリくるかな?いや、こっちの方がドンブラコ感あるかな?ドンブラコ、ドンブラコ。

嗚呼、本当のドンブラコは、真実のドンブラコは、一体どこにあるんだい?

 

 

詰まるところ桃太郎という物語の真髄は、「物語を読み終えた後に、ようやく物語が始まる」ことにある。桃太郎が鬼を倒すというまやかしのエンディングを経て、読者は遂に、それぞれの旅に出ることを許される。自分だけのドンブラコを、未だ見ぬドンブラコを探す旅。

 

私たちは想像力という名の船に乗り込み、広大な言葉の海を進んでいく。ドンブラコ、ドンブラコと。

 

「オチンポ」というのは恥ずかしい言葉ではないと友人が教えてくれた。

 

卑猥な下ネタでもなんでもないので、本文では、「オチンポ」を「オチ○ポ」と表記したり「オ○ンポ」と表記したりはしないものとする。ここまで堂々と「オチンポ」と表記されている論文は現代では珍しく、多少驚かれるかもしれないが、すぐに慣れると思うのでご容赦頂きたい。







それは高校生の頃。僕は「オチンポ」という単語を、とある外国人男性に教えた。イギリスから日本に交換留学に来ていた優秀な学生で、長身の金髪。ナイジェル。その端整なルックスは高校デビューもままならない挙動不審な学生達の中にあって異彩を放ち、彼は学内でかなりの有名人だった。CGかのような美しい外見からついたあだ名は、「ファイナルファンタジー




突然日本に現れたナイジェルは、右も左も分からない異国の地で、不運にも僕を友達に選んだようだった。僕は異文化交流に興味があったわけではないが、イケメン外国人と友達だと思われているだけで自分の地位があがったようで、それが嬉しく、鼻高々だった。なんて貧相な考え方なんだろうか。我ながら恐ろしい









そんな僕に、ナイジェルは日本人の女性と仲良くなる為にはどうしたら良いかと熱心に聞いてくる。どうにかイケてる日本語を話してナンパしたい。日本語のイケてるスラングを教えて欲しいんだ、CHIBA!。




そんな熱心な彼に対して伝説のスラングである「オチンポ」を教えた。これは僕の人間性の低さと無限の悪意こそが為せた偉業だろう。ナイジェル、
オチンポというのは若者が使う言葉で、よう元気かい?という意味なんだ。ワッツアップ!みたいな感じかな。特にイケてる男子が、女子に対して使う言葉なんだ。だからナイジェルにぴったり。疑問系で、爽やかに聞くんだぞ。「Hi, オチンポ?」という感じだ。



発音に注意してくれ。It’s Not like O-TIMPO, but O-CHEEEEEEMPO!!!!! ドゥーユーあんだーすたんド?!













それから数日と経たず、界隈はある恐ろしい都市伝説で持ち切りになった。正門前で、超絶イケメンの金髪外国人が、眩し過ぎる笑顔を振り撒きながら、オチンポ?と聞いてくるらしい。明らかにオチンポでも何でも無い女子高生に対し、なりふり構わず「オチンポなのかどうか」を確認してくる外国人男性。多くの場合、答えはNOだろう。しかし外国人男性は引き続き楽しそうにオチンポ?オチンポ?と連呼し、その後、英語を話し始める。






どこからともなく伝わってくる噂を聞いて、僕は一人で笑い転げた。あかん、これは、ホンマにあかんやつや。ああナイジェルくん、これで君も性犯罪者だ、ハ〜ッッハッハ











明くる日、いつものように教室で昼食をとっていると、ナイジェルが近づいて来たので、僕の身体は緊張でこわばった。まずい。彼を騙したのだ。殴られるかもしれない。殴られたくない。でも殴られるだろう。いや、殴られてしかるべきだ。殴られよう。おとなしく殴られよう





しかしナイジェルは怒っていないどころか満面の笑みで言う。CHIBA、本当に有難う、オチンポは最高だよ。最高だ!たぶんオチンポはワッツアップとは少し意味が違うみたいで、皆どこか恥ずかしがっているようだったけど、僕がオチンポと言うだけで、物凄い笑いがとれたんだ!信じられないくらい反応が良かったよ。男女問わず友達が増えたんだ!間違い無く最高のスラングだよ!!











彼に卑猥な単語を言わせて性犯罪者にしてやろうグフフと思っていたS級犯罪者の僕は、渾身のカウンターパンチを喰らって身悶えした。オチンポは彼を貶めるどころか、彼の魅力をさらに引き立てた。近寄り難いという彼の唯一にして最大の難点を克服し、お茶目で可愛い側面を付与するに当たって、「オチンポ」という単語は最適解だったようだ。



きっと、「こんにちは」でも「はじめまして」でも役不足、オチンポが、オチンポだけが正解だったのだ。











その日の出来事は僕にとって衝撃的だった。「オチンポ」という単語を見知らぬ人の前で言えば、その人間はドン引きされ変態野郎と言われる。これが僕の持つ常識だった。しかし、しかるべき局面でしかるべき人間が言えば、なんと、オチンポもポジティブに解釈されうる。





そう、それはまるで気持ち悪い男性が異臭を放ちながら言う「おっぱい」がセクハラに当たるのに対して、福山雅治が言う「おっぱい」はセクハラに該当しないのと同じように。



思春期の男達の言う「おっぱい」にはギラギラした性欲が感じられるのに対し、赤ちゃんがママにおねだりする「おっぱい」からは、ギラギラした性欲はあまり感じられないのと同じように。













つまるところ、「オチンポ」の意味は、文脈の中にしか存在し得ない。オチンポという単語を卑しいものにしてきたのは他でもない、自分自身だったのだ。オチンポに何かしらの意味を与えるもの、それは会話の流れであり、タイミングであり、身なりであり、思想であり、本人のスタンスなのだ。

僕はオチンポという単語の正確な意味を理解していなかった。オチンポとは、それ自体は、卑猥な下ネタでも何でも無い。





オチンポという単語それ自体を卑猥だと思い込み、卑猥だ卑猥だ卑猥だ卑猥だと思うことで「オチ○ポ」などと表記してしまうことにより、「自分自身がそれを卑猥だと思っていますよ」という卑猥な考えが「オチ○ポ」から我慢汁のように滲み出てしまった時、その時ついに、オチンポは卑猥になるのだ。



そう、一切の躊躇なく、堂々と繰り出される「オチンポ」には一切の卑猥さも嫌らしさも無く、むしろそれはチャーミングでプリティ、クールでラブリー。





それを僕に教えてくれたのは、ナイジェルだった。



















その日以来、僕はオチンポの魅力に取り憑かれた。



「オチンポ」という単語それ自体は別に良くも悪くも卑しくも嫌らしくもなんでも無い筈だという確信が、言ってはいけないシーンでオチンポという単語を繰り出す原動力になった。見知らぬ女性の前で、目上の人の前で、ビジネスシーンで。目を凝らせば、機会は無数に転がっている。オチンポチャ〜〜〜ンス!!







しかし現実は甘く無い。何気なくオチンポと言ってみてはドン引きされ、満を持してオチンポと言ってはドン引きされる。そんなことを繰り返した。だが僕のオチンポは決して折れなかった。



もっと良いオチンポの言い方がある筈だ。未だ見ぬオチンポがある。今回はドン引きさせてしまったが、オチンポという単語自体に責任を擦り付けてはいけない。文脈だ、全ては文脈なのだ。ナイジェルが教えてくれたんだ。完璧なオチンポを繰り出すんだ。できる、できるぞ!!オチンポ!! おちんぽ!!!諦めるな!!!!オッチぃぃぃぃぃいンポおおおおおおおおおお!!!!!!!!













-----------------













「オチンポというのは、いついかなる時も卑猥な下ネタであり、いついかなる時もオゲレツで低俗なワードである。」





ナイジェルにオチンポの意味を教えてもらってから、かれこれ10年が経ち、数多のオチンポ実験、実験の数に等しい数の無惨な失敗を繰り返してきたことで、最近になってようやく僕もこの偉大な真実に気付いた。間違いない。オチンポが許される文脈など、この世には存在しない。オチンポはダメ。絶対ダメ。

相当な時間をかけて、ついにこの基本的な常識を得るに至った。ようやく、皆さんに追いつくことが出来た。





オチンポの意味は文脈が決める? ふざけたことをぬかしてる阿呆を、今ではブチ殺してやりたい。オチンポの意味は文脈が決めるのではない。オチンポはいつだってオチンポ。肉棒だ。













いいかい。人様の前で、「オチンポ」と口に出して言ってはいけない。たくさんの人が見るところに書いてもいけない。いかなる文脈でも人格を疑われてしまう。それは、常にセクハラに該当する。



なぜならば、オチンポはワッツアップではないどころか、ペニスの意味なのだ。それは会話の流れ、タイミング、身なり、思想、スタンス、それらを補って余りあるほどにペニスなのであり、あまりにもペニスなのである。それはワイセツの塊であり、卑猥な下ネタの典型例であり、徹底的にペニスなのである。











理論上、嫌らしくないオチンポが、つまり「良いオチンポ」が存在するはずであると、あの日のナイジェルは声高に提唱し、それを見事に証明して見せた。しかしその後、地球上のどこを探しても良いオチンポは見つからない。



理論の上では存在し、実際にはどこにもない。良いオチンポは、虚数だ。

















今となっては、本文にオチンポオチンポと堂々と表記してきたことが、本当に恥ずかしい。親族も取引先もなんならナイジェルも見ている。「卑猥な下ネタではないので、オチ○ポとは表記しないものとする」というトチ狂った選手宣誓を、ただただ悔いるばかり。一体全体、何回オチンポと書いてしまっただろう? 今からでも遅く無い、全て「オチ○ポ」に書き直すべきだ。









しかし、文中の「オチンポ」を見つけては「ン」を消して「○」を入れる作業をするアラサーの男性の惨めさと言ったらない。その作業は、恐らくオチンポと何度も表記してしまう恥ずかしさの更に上をいく恥辱行為だろう。そんなことは出来ない。今となっては、逃げ場はどこにもない。追いつめられた。おいチンポめられた。はっはっは。死にま〜す