それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

時は流れ、人は変わり、ずいぶんと重ね着をした気がする。

 

気が付けばもう8月の中旬に差し掛かるようですが、

この過ぎ行く時間の速さはいったいぜんたいどういうことなのか。

魔法なのか、あるいはスタンド能力か、詐欺かなにかか、もしくは加齢による不具合なのか。このブログを読んでいただいている稀有なみなさまの年齢などは知る由もありませんが、老いも若きも、少なからずなにかしらの変遷を経て、現在のあなたに至っていると思います。

 

変遷と言いましたが、その様子は様々なものがあると思います。

進学や就職、離職、転職、結婚や出産というような、自分史を記述すれば典型的なピリオドになりえる転機はもちろんのこと、推しが変わる。新しい趣味ができる。

好きな食べ物が変わった。トラウマレベルの作品に出会った。生きる目的とか価値観が変わることも変遷と呼べるでしょう。

なにかを目指したり、なにかを諦めたり、夢や挫折に関わる出来事も、自分が変遷するきっかけとしてカウントすることと思います。

 

自分のことをそっと振り返ると、すぐに自分のターニングポイントが思い浮かぶ。

こんな私にだって、挫折と呼ぶと、なんだか自己愛がつきまとうようで気恥ずかしいけれど、なにかを目指して諦めたり、なにかに選ばれなくて離れてしまった経験はある。

 

自分の変遷だけでも思い当たるのだから、家族だって、友人だって、変化する。

久方ぶりに会ったときなど驚くほど変貌していることがある。

 

人は変わる。私とは別の場所で、人は変わっていくのだ。

 

そしてこれはとても現代的な現象だと思うのだけれども、SNSを眺める私たちは、いつのまにか友人知人の変遷がうっすら見えるようになってしまっている。

かつては。道でばったりとか同窓会に出てみたりとか、友人の結婚式だったりといった。その再会までに流れていたはずの、疎遠から空白にいたる時間が消え、旧友が変化する様子がSNSを通して何となく目に入るようになった。

 

それは、結婚式に招待されるほどの間柄でもない友人知人の「結婚しました」とか「子どもが生まれました!」といった素直にいいねを押せる人生の契機。

 

一方でかつて同じものを目指したり、似たジャンルで表現を共にした友人や後輩は、そこからフェードアウトしていく様子。あるいは自分の経験から見て、「そちらはあまり見通しの良い場所ではないぞ」と思える方へ、進んでいる予感。それらが、SNSの投稿などでうっすら知覚される時、いいねでも、コメントするでもなく、私はただ眺めるままに、頭の中で「人は変わるものだ」というつぶやきを繰り返す。

 

その時の気持ちは寂しさというのか、穏やかだけど、底にひっそり渦巻くこの感情は、なんと名付けたらよいものか。

 

このように変貌に直面し、意識レベルがかなり高くなった旧友や後輩。

すっかり変わってしまった友人に、逆にすっかり変わってしまったと謎の幻滅をされるという経験がある。

会うことのなかった空白の機関の出来事は、お互いに関知しえないことだし、友人が変わっていくことは無理もないことだけど、それに直面した時、自分の無力さを痛感させられる。

 

 

 

そんな時、いったん友人との関係を空白の前まで巻き戻したい気持ちになる。

「あの頃はよかった」という後ろ向きに聞こえるし、老害かよと言われそうな言葉だが、お互いがフラットな気持ちだった時間に巻き戻して、顔お合わせて話がしたい。

だが、巻き戻すのはとても難しい、友人の変貌具合もそうだが、なにより自分が「大人」の側へすっかり歩みを進めてしまっているのだ。

 

 

開いてしまった距離は、簡単に詰めることはできない。

 

私個人は別に友人がやっていることや、謎のセミナーなどの是非を問いたいわけではなくて、お互いの間にある埋めがたい距離に直面をした時、自分がとれる行動の少なさに戸惑い、そして自分自身の変遷を実感したのだ。

 

 

この実感は、大人になるにつれて様々に獲得した世間体を重ね着したんだという実感である。

 

 

愛想笑いをするときの衣装、会社員として真面目に勤めるふりをする衣装。しっかりものをぬかりなくアピールしたいときのコーデ、私たちは不器用な生き物だから、着替えるのではなく、重ね着をしてしまう。そしてそんな世間体で、着膨れするばかりで、身動きがとりにくくなるのだ。

 

 

だからせめて着膨れする前の、気心の知れた友人とは、お互いに重ね着を脱いだ状態で会いたいと願うのだけど、もう脱げない。そこには寂しさというか、諦めのような。

それでいて自分が選んだ変遷の覚悟のような、なんとも形容しがたい宙ぶらりんな気持ち。それがリアリティを帯びて迫ってくる。

 

過去の変遷の結果なんて、いつもすこし先の未来にあるのだから、この着膨れした重ね着を脱ぐことはできないのだ。

 

 

 

私も着膨れしていく一方だ。着やせする大人にあこがれるが、そんな人をまだ私は見たことがない。