それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

『ドンブラコ』というワードが気になりすぎて~春~

 

『桃太郎』という作品をご存知だろうか?

唐突に失礼、ご存知かとは思いますが、ここで少しばかり『桃太郎』について軽く説明をすると、川に流れていた桃を叩き割るとそこにエスパー伊藤かの如く怪しげな人間が潜んでおり、その人間が動物の力を借りて鬼を一匹残らず抹殺するという、有名な作品だ。

 

この桃太郎という作品は完成度の高い創作物語として一定の市民権を得ているが、一つだけある深刻な問題を抱えている。それは、川へ洗濯に出向いたお婆さんが桃を見つけるあの有名なシーンにおける、桃が流れてくる様を言い表した不気味な擬態語、「ドンブラコ、ドンブラコ」である。

  
作中では特段の注釈もなく、何事もなかったかのように「桃がドンブラコと流れてきました」と書かれているが、一方、現実問題として、「ドンブラコ」などという謎の日本語は、この桃太郎という物語以外では全く聞いた事がない。ドンブラコ。桃がドンブラコ。

 
それまで気持ちよく桃太郎を読んできた読者は、この突然の「ドンブラコ」で置き去りにされてしまう。「ドンブラコ」って何だ。「桃がドンブラコ」って、どういう状況なんだ。

桃の登場シーンにおいて定番チューンかのように流された「ドンブラコ」というBGMが、実は誰も聞いたことのない狂気のワルツであるという事件。これが俗に言う、“ドンブラコ問題”である。

 

 
「桃がドンブラコ」という奇をてらったワーディングの衝撃は凄まじく、この独特のフレーズを目にするや否や、多くの読者はパニックに陥ってしまう。ど、ど、…ドンブラコ?! 

平易な言葉のみで構成された分かりやすい文章の中にあって圧倒的に異彩を放つドンブラコ。孤高のドンブラコ。Amazing DONBRA-CO。

無論、ドンブラコの覇気に押しやられ、その後の物語は、読めども読めども頭には入って来ない。鬼ヶ島なんてどうでも良い。そんなことよりも、桃は一体、どんな風に流れてきたんだろうか?やはり、きびだんごも、ドンブラコと渡したんだろうか?キジは、ドンブラコと飛んだのだろうか?お爺さんとお婆さんは、末永くドンブラコドンブラコと暮らしたんだろうか?

 

 

このドンブラコという日本語が、万が一、「桃が流れてくる時」にのみ使うことの許された擬態語なのだとしたら、その汎用性の低さたるや常軌を逸している。あらゆる日本語の中で、最も使用機会に恵まれない単語だと断定して良いだろう。

 

思い出して欲しい。あなたが日常生活を送る中で、「桃が流れてきた」なんてことは、一度でもあっただろうか?ない。ないだろう。少なくとも筆者のこれまでの人生において桃は一度も流れてこなかったし、今後も流れてくることはない。そんなシーンに出くわしたければ、桃を自発的に、積極的に「流す」しか方法はない。こんなに汎用性の低い単語が存在するなんてことは、ありえない。

 
であれば、ドンブラコというのはやはり、桃の流れる様を描写する以外に、何か他に使い道があるのだろうと推測される。日常生活で、とても自然に、違和感なく「ドンブラコ」という表現を使うことが出来る。ドンブラコに適したシーンがある。筆者の考えでは、例えば以下のようなドンブラコがありえる。

 

 

「月例の予算会議、山田はまたしてもドンブラコドンブラコと居眠りを始めた。」

 

…そう、「グーグー」や「グウスカ」といった低次元の眠りを超越した豪快な眠り、それこそがこのドンブラコ睡眠。信じられない程のイビキをかき、寝返りをうち、大声で寝言を言いながら爆睡する様、そう、その姿まさにドンブラコ!





「こめかみに銃を突きつけた齋藤は、無慈悲にもその引き金を引いた。…ドンブラコッッ!!!!銃声が鳴り響き、山田は血しぶきをあげ、肉塊となった。」 

 

…「バンッッ」では表現しきれなかった、銃声のあの、鈍く響き渡る感じ。銃弾が脳を裂きグチョっと体液が出てくるイメージをも想起させる、残酷な銃声、ドンブラコ。 マシンガンのような、連続した銃声を表現したいのであれば、「ドンブラブラブラブラブラブラブラブラコッ!」という具合に、「ブラ」を増やしていけば良いのだ。

  

  

 

「おお〜っと、横浜ベイスターズ、ここで8番の山田に代わり、代打、ドンブラコです。長打力のあるドンブラコがバッターボックスへ向かいます。」

 

…その黒人、なんと身長は2.1mで体重は165kg。恵まれた体格から繰り出される豪快なホームランで観客を魅了する、本格派外国人助っ人。打率1.9割にして、年間のホームラン数はなんと66本。長打率94%。ホームランの最大飛距離は233m。そう、彼こそがハマの巨神兵、南半球の打ち上げ花火、ベイスターズの破壊神、オドリック・ドンブラコだぁぁああああアアッッッ!!!!!!

 

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桃太郎を読んだ後、読者の頭に残るのは鬼でもキジでも無く、ただドンブラコという独特な単語それのみである。「ドンブラコって、自分が知らないだけで、実は一般的に使われてる単語なのかな…?」

桃太郎という作品にはドンブラコという地雷が設置されており、それにより読者は自らの無知を疑い、恥を恐れる。その単語が、気になって気になって、仕方が無い。

 

それからと言うもの、生活のあらゆるシーンにおいて無意識にドンブラコを探してしまう自分に気付くだろう。あ、ドンブラコって、ここで使えるのかも?あ、いや、こっちの方がドンブラコはシックリくるかな?いや、こっちの方がドンブラコ感あるかな?ドンブラコ、ドンブラコ。

嗚呼、本当のドンブラコは、真実のドンブラコは、一体どこにあるんだい?

 

 

詰まるところ桃太郎という物語の真髄は、「物語を読み終えた後に、ようやく物語が始まる」ことにある。桃太郎が鬼を倒すというまやかしのエンディングを経て、読者は遂に、それぞれの旅に出ることを許される。自分だけのドンブラコを、未だ見ぬドンブラコを探す旅。

 

私たちは想像力という名の船に乗り込み、広大な言葉の海を進んでいく。ドンブラコ、ドンブラコと。