「ちょうどいい」ものが年々好きになってくる。
自慢でもなんでもないのだが、僕は日に4~5杯はコーヒーを飲む。
朝起きたら飲むし、仕事中も飲むし、昼食の後にも飲むし、喫煙をしながらも飲むし、
仕事が佳境に差し掛かるタイミングや、帰宅して本を読んだり、ゲームをしたりするときも飲みたくなる。
おそらくだが、僕はそうとうコーヒーが好きだ。
いい年齢になった大人が、こういった話をすると、たいていが「俺はコーヒーに関してはうるさい人間だぞ」という香りを漂わせがちですが、僕にはそういった意図は全くなく、かといって「味の違いがわかる大人であること」を拒絶するような、露悪的な気持ちもない。
なぜなら、僕の好きなコーヒーはセブンイレブンのマシンで淹れるコーヒーだからである。次点ではスタバの。
だから、豆の種類や淹れ方、焙煎の具合やお気に入りのコーヒーショップまで、何一つ語ることができない僕は、コーヒー好きを名乗るのがおこがましいのではないかと考え、いつも口ごもってしまう。
だけれども、僕は言いたい。セブンのコーヒー美味しくない?最近やっと沖縄にもできたけど、セブンのコーヒーって「ちょうどいい」と思わない?僕は思う。
もちろんその「ちょうどいい」というのは、モノの価値の高低で言いたいわけではないし、グルメに対しての価値の高低を言いたいわけでもない。
僕にとってのコーヒーのちょうどよさというのは、自分に慣れた味がいつも同じように手に入るという事なのだ。僕がなにかを好きになるには、そういう日常の「ちょうどよさ」を感じられるかどうかが、大きなウェイトを占めるのでしょう。
僕にはもったいないぐらいの親友がいて、そいつもコーヒーが好きなのだ。
高校生の時に、某コーヒーショップでバイトをしており、僕も同じところでバイトをしていた。
店長から、コーヒーならいくらでも飲んでいいからね!と言われ、僕と親友は、やった!と喜びコーヒーを飲んだ。
しかし本当に申し訳ないが、全然おいしくなかった。二人して飲んだ瞬間に、「マッズ!」と言って顔をしかめた。あの時の店長の悲しそうな顔は未だに忘れられない。
その親友とはほぼ高校生活を共にしてきて、遊ぶ時にはコーヒーを飲んでいた。
今考えてみると調子にのっているガキやなとも思うけど、僕たちの間にはコーヒーがあった。
コーヒーを飲むたびに、コーヒーという文字列を見るたびに、お互いの存在が思い浮かぶ。コーヒーとの付き合いは15年ほどたったであろう。ゆったりなのか、あっという間なのか、流れたコーヒーとの時間は僕と親友の半生とも言えそうで、懐古でもなく、これから迎える時間でさえ、コーヒーと親友の姿をありありと想像できる。
僕たち二人にとって、コーヒーの「ちょうどいい」とは、時間の流れなのかもしれない。
味も風景も、思い出も人格さえも、いつでも思い出し、想像することができる。
コーヒーを介せば、過去も未来も地続きの時間として、早送りも、巻き戻しもできる。
コーヒーは二人の時間を伸び縮みさせる、四次元の飲み物なのだ。
そんな「ちょうどいい」をこれからも僕は、いくつも持てるのだろう。
1日3杯のコーヒー習慣がいい人生をつくる。「3 Coffee a Day」というネスカフェさんの考え方に共感して、今日のブログを書きました。
コーヒーが苦手じゃなかったら、それぞれにちょうどいいコーヒーと付き合いましょう。
ちなみにお家で使ってますよ、ネスカフェゴールドブレンド バリスタ
https://shop.nestle.jp/front/contents/machine/nba/spot/
ずぼらな僕にもちょうどよく使えてます。