それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

早口言葉に出てくるものに遭遇したことが無いなと、土曜日に思った。

 

 

隣の客がよく柿を食う客だったことがあるだろうか?






 

 

少なくとも僕にはない。一度もだ









そして坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いていたこともない。








バスはガス大爆発を全く起こさないし、特許に関する行政を行うのはあくまで「特許庁



 

 

 

特許許可局などという組織は、存在すらしない





 

 

生麦と生米と生卵がどうした?そんなもの混ぜたところで食えやしない。生ゴミだよ、それは





 

ミャンマーミャンマーなどと、いくつもポコポコとミャンマーが湧き出てくるわけがなかろう。真実とミャンマーは常に1つ

 

 

その釘が引き抜きにくいのであれば、嘆いてないでさっさと筋トレを始めろ






 

そもそも、赤パジャマも青パジャマも黄パジャマも保有する阿呆がいるかトチ狂ったギャルじゃあるまいし。だいたい何だその3色のチョイスは。信号かお前は





 

 

 

赤巻き紙、青巻き紙、黄巻き うんざりだ

 

「巻き紙」なんて言うワケの分からない物体がこの世から消えてなくなっても、誰も苦しみやしない。苦しまないどころか気付きすらしないだろう。だいたい何だその3色のチョイスは。信号かお前は



 

 

 

挙げ句の果てにはカエルピョコピョコだと?ふざけるのもいい加減にしろ

 


なにがミピョコピョコだ。「ミピョコピョコ」ってのは具体的に何のことだ言え







 

このさい坊主もバスも生麦も許すが、ミピョコピョコだけは許さんぞ。断じて許さん。お前まさか、ピョコピョコを数えたんじゃなかろうな?



 

 

先人達の英知を結集し両生類が飛び跳ねる様を巧みに描写した伝説の擬態語「ピョコピョコ」を、無断で数えたんじゃあるまいな?嘘と言ってくれ、何故数えた



 

 

あわせてピョコピョコ?
















ムピョコピョコ? 世界の
















世界の終わりだよそれは





3つの「ピョコピョコ」と3つの「ピョコピョコ」の和は12個の「ピョコ」すなわち6つの「ピョコピョコ」なんですピヨピヨ ぴょっぴょっピョッ ピョ〜〜っピョッピョッぴ〜〜〜よぴよぴよピョピョコピョコぴょおおおおお〜〜ん ピコピコバー!ピコピコバー!バブバブばぶばぶ ピョコピョコぴょおおおお〜んっぴピョッピョピョ 世界の





 

世界の終わり







 

 

完全なる終わり







 

 

the end of the ending world of world's end which ends world for ending end of world's world end だ 略してTだ

 

 

 

 

 

全世界早口言葉連盟とかがあるとすれば、あやまります。

ごめんなさい。

社会人のマナーってよく考えると独特だなと

 

ビジネスシーンに蔓延する独特のマナー全てに対して「独特レベル」を点数付けした場合に確実に上位に食い込んで来るであろう非常に独特なマナーの一つ。それは、「名刺交換の際に、相手よりも低い位置で自分の名刺を渡す」という例のアレだろう。



名刺を交換する際には、相手の差し出した名刺の高さよりも、低い位置で自分の名刺を差し出さないといけないと言うのだ。新人研修で習った際には、相手よりも低い位置に名刺を差し出すことで、「謙虚さ」を示しているのだと説明を受けた。



最初に断言しておくが、私は何もこういったビジネスマナーを小馬鹿にしたいのではない。「極めて独特である」と言っている。いや、むしろ、「感銘」すら受けている。





第一に、この「相手よりも低い位置で名刺を差し出す」という鉄則は、容易に無限の事態を招き得る。この大原則を、自分と相手が、律儀に守ってしまった場合に何が起こるのか。互いが互いに相手の名刺の下に潜り込もうとして、熾烈な争いが起きる。



先ずは、相手が名刺を差し出してくる。私は差し出してきた名刺の高さよりも、1cmほど低い位置にこちらの名刺を出しいざ交換をしようとするが、相手は「いえいえ」と謙虚な声を出しながら自分の名刺をそこからさらに2cm下げることで私の名刺の下に潜り込んでくる。



私は下に潜り込まれたことで相手の名刺を受け取ることが出来なくなり、「いやいや」と言って苦笑いをしながら自分の名刺の高さを更に2cm下げ、相手の名刺の下に潜り込む。



アホみたいな話に思えるかもしれないが、実際のビジネスシーンで、これはよく起こる現象だ。特に、会社の立場も年齢も同程度な、「どちらが偉いのか本当によく分からない」状況において頻発する。



私の「いやいや」の後はと言うと、相手は「いえいえ」と言ってはにかみながら更に2cm下げ、そして私はすかさず2cmを下げるのだ。そしてついに世界から「いえいえ」も「いやいや」も消え去り、私の素早い2cmを見て相手は迅速に2cmを下げる。



やがて私は相手の動きを完全に見切り、相手が2cmを下げている途中で、既に、次の自分の2cmを開始する。この無限に続く2cmの争いの中で、互いが合意できる瞬間というのは、一体、いつ訪れるだろうか? 決して訪れることはない。

 

 

 

「ふ..」相手はニヤリと笑い、そして突如として高速で下方向に名刺を突進させる。私は負けじと鬼の形相で名刺を下側に突撃させる。やがて会議室の床まで私が先に到達すると、取引先は、「失礼します」と言って会議室を出て行く。



会議室に残された私は、おや? と思う。すると次の瞬間、窓の外から声が聞こえるのだ。身を乗り出して見てみると、なんと、下の階から、先ほど部屋を出て行った取引先がこちらを見上げて名刺を差し出しているではないか。低い。なんて低い名刺の位置なんだ。ビジネスマナーの鬼だ。



私は慌てて会議室を飛び出し、エレベーターに飛び乗る。2階下り、窓から身を乗り出し、1階上の階にいる取引先を見上げて名刺を差し出すと、彼は一目散にその部屋を飛び出してエレベーターに飛び乗る。こうして、ビル内で、壮絶な争いが始まる。下へ。相手よりも、下へ。





さて、ここまでくれば、この戦いが最終的にどのような末路を辿るか、おおよそ想像がつくだろう。相手よりも低い位置に名刺を差し出したい。その熱い思いを胸に、男達は一階まで降り切り、そして、そこから更に地下深く、「マントル」を目指すことになる。



しかし、実際には、マントルというのは「月よりも遠い」と言われているほどに到達困難な場所である。つまり、現実問題として、男達のビジネスマナーの争いはまず、その手前の「地殻」部分にて行われることとなるのだ。



男達は、自前の「大深度用立抗掘削機械」を持ち出し、バリバリと地面を掘り始めるだろう。名刺を片手に、男達は地球の中心に向かって突進する。目標は「上部マントル」。その為には、60km近く地下を掘り進まないといけない。



尚、この地殻部分における掘削争いは、地下岩盤の地質学的特性をどの程度正確に把握しているか、という部分が非常に大切になってくることに留意されたい。つまり、「穴を掘る場所を間違えれば、崩落を招いてしまい一巻の終わりである。」ということだ。



どうも先ほどから、多くの読者を置き去りにしているのではないかという悪い予感がしているが、いずれにしても、掘削に適していない部分を強引に掘り進むことは、「死」を招く可能性がある。名刺を低く渡すというのは、命をかけたビジネスマナーなのである。



必然的に、男達は名刺をより低い位置で渡すため、日本各地の地層を入念に調べあげることになるだろう。どこなら地中深く穴を掘っても安全か。どこに自慢のドリルをブチ込むのが理想的か。



初対面の取引先と会った場合のデキるビジネスマンの基本的な動きは、名刺を床に突進させてからエレベーターで慌てて一階まで降り、日本地図を広げて理想的な掘削地点を特定した後、大深度用立抗掘削機械を持ってそのポイントへ可及的速やかに駆けつける。というものになる。



尚、参考まで、掘削にあたって理想的な場所の具体的な例を示しておくと、日本においては北海道の稚内市などが挙げられるだろう。
※『稚内層珪質泥岩の乾燥による収縮と強度の変化』参照

8-11 岩に含まれる水分で大きく強度が変わる泥岩 | 原子力機構の研究開発成果2015

 

 

 

 



いずれにしても、結論としては、「名刺交換をするなら稚内が望ましい。」ということである。

 

 

 

しかし、こうして改めてこのビジネスマナーの末路を考えると、何か腑に落ちないものがあるのではないだろうか



そもそも、取引先と名刺交換をするたびに稚内に行っていたのでは、コストが合わない。というか、名刺交換の度に人類がマントルを目指してズボズボ地表に穴を空けていたのでは、コスト以前に、地球側がもたないだろう。





ここで改めて冒頭に立ち返り、「名刺を相手よりも低い位置に出すことが謙虚」という理屈をゼロベースで紐解くと、我々が大きな誤解をしていた可能性が浮上する。



これまで我々は、「名刺の存在する高さと、人間としての地位とは、正の相関がある。」と考えてきた。それ故、謙虚さを示すため相手よりもとにかく「低く」名刺を出そうとし、結果的に、人類はマントルを目指してしまったのだ。



しかし、「人間としての地位や偉さ」と相関を持つのが、「名刺の存在する高さ」ではなく、「名刺の保有する力学的エネルギー」であったと考えたらどうだろうか。力学的エネルギーとはつまり、位置エネルギーと運動エネルギーの合計値である。



さあ、記事からいよいよ怪しげな空気が漂ってきているが、続けよう。これは即ち、「名刺の位置が高い方が偉い」と見えていたこれまでの事象は、実際には、お互いの名刺が同じ質量、どちらも静止している前提で、「位置エネルギーの分だけ、場所の高い名刺が、偉かった」ということに過ぎなかった、という仮説だ。



つまり、実のところ、同じ高さにあったとしても、「非常に重い名刺」や、「物凄いスピードで動いている名刺」というのは、力学的エネルギーが大きい分、「偉い」と言えたのではないかということになる。



この新たな力学的エネルギーを用いたビジネスマナーの解釈が、従来の解釈に比べて画期的な点。それは、相手よりも高い位置で名刺を差し出してしまったとしても、相手よりも非常に軽い名刺を使っていれば、全く問題なく「謙虚さ」を示すことが出来る。ということだ。



つまり、「名刺の重さは、渡されるまで分からない」という点がポイントなのだ。「高さ」は視認できるが、「質量」は視認出来ないという人類の特徴。これにより、お互いに差し出した名刺の偉さ関係が、極めて不明瞭な状態となる。よって、名刺交換自体が、成立するのである。





さらに、この解釈の発見により、名刺交換の柔軟性が増す、という点にも充分留意頂きたい。例えば、「高さと偉さに相関がある」とする従来の解釈のまま、3階下の会議室にいる社長、つまり明らかに目上の人と名刺交換をしようと思ったら、どうだろうか。



 

旧来の解釈を用いれば、わざわざあなたがもっと下の階に下がらないといけない。しかし、力学的エネルギーを用いた新たな解釈を適用することでこの問題は容易に解決する。社長が下の階に居たとしても、彼に、鉄製のゴッッツイ名刺を保有して貰うだけでオッケイ。



そして、出来ればその名刺を、思い切りどこかに向かって投げ飛ばして頂こう。初速はv(0)とおいて頂きたい。そうすることで、下の階でありながら、彼の名刺は非常に偉くなる。社長の肩が強ければ強いほど、名刺は、偉くなる。両者は場所を移動することなく名刺交換を完了する。



こうして、高さの問題を解決し、人は極めて柔軟な名刺交換を実現したのだ。いやあ、嬉しい。嬉しいよ。ついに。ついに人類は、稚内マントルを目指すことなく、自由に名刺交換を実現することが出来るんだね!!

 

 

 

乾杯。

休みの日、自分は何をしていたのか探ったら地理用語だけのメモを見つけた。

 

地理で学んだ名称を日常的に使うことがあるのだろうか、

 

ふと疑問に思い始めた。なぜこれを疑問に思ったかというと、メモ帳の欄に、

関東平野」という文字だけが残されたメモを見つけたからだ。

 

 

過去の自分は未来の自分になにを残したかったのか、この「関東平野」という文字がなにか重要な意味を持つものなのか、今になってみればこの謎は、謎のままである。

 

 

関東平野という言葉は日常的に使用したことはなく、地理の授業でしか聞いたことがない、しかし過去の自分は日常的に関東平野という言葉を使っていたのかもしれない。

 

 

 

そもそも、平野という概念が日常会話にでてくること自体が不気味ではないだろうか。「まあ30歳くらいまでは関東平野に住みたいかな。でも子育ては足柄平野。老後は十勝平野かなあ..」などと語る人間がいたとしよう。すこぶる気味が悪い。



彼は、土地を「平野」という謎の区切りで捉えている。明らかにただ者ではない。だいたい、十勝平野なんていう単語、地理の問題の選択肢でしか見たことがないぞ。地理だ。地理の試験が、彼を蝕んでいる。



そういう人間は、次の瞬間には、「来週、リアス式海岸いかない?」と言い始めるのだ。そして、「関東ローム層でバーベーキューしようよ。」と言い始める

こちらが場所を提案すると、「いや〜でもあそこ扇状地だからな〜」と言って渋るだろう。暗闇で脅かすと「フォッッサマグナッッ!!!」と言って飛び跳ねる

 
 
 
 
 
地理用語だ。それこそが彼の人生なのだ。小学校の時に地理が得意なことで「地理が得意な自分」としてのアイデンティティを確立し、そして大人になってからも地理用語で他者をマウントをしないと自我が保てない
 
 
 
ああ恐ろしい。なんて恐ろしい男なんだ。怖過ぎる。迂闊に近寄れない。マジで怖い。どうしよう。どうすればいいんだ?というか、誰?
 
 
 
いま私は、誰の話をしているんだい?そんな男はどこにもいない。どこにもいない「地理用語人間」に恐れをなしてどうする?
 
 
 
これでは、落ちて来るかもしれない隕石に怯えて家から出られなくなっているようなものだ。そういう人間が一番怖い。
 
 
 
暇つぶしのためにブログを書き始めたというのに、地理用語を使用する人間を怖がっているだけのものになってしまった。
 
 
そう、暇という単語で思い出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「休みの日は何してるんですか?」
 
 
 
 
 
昔から思っていたが、この何気ない質問の破壊力はヤバい。一体何を答えれば良いのか、皆目検討もつかない
 
 
 
まさに超難問
 
 
 
 
 
 
 
まず大前提としてなぜ回答が難しいのかと言うと、休みの日には決まってコレをしています!というような、定番の活動みたいなのが自分には存在しないからである。
 
 
友人と飲みに行っている日もあれば、ドラムを叩いている日もある。
疲れて家で寝ている日もあれば、鬼の形相でオナニーをしている日もある。
 
 
 
休みの日の活動が、毎週、全くと言って良いほど違うのだ
 
 
 
 
 
 
 
つまり、実態に照らし合わせて相手の質問に正確に答えようとすると、「休みの日によります」になってしまう。
 
 
 
しかし関係の薄い間柄で、こんなぶっきらぼうな答えが返ってきたらどうだろうか。冷たい印象を与えてしまいそうだ。
 
 
 
なにその答え?と思われてしまう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ただ、事実はと言えば、本当に、“休みの日による” のである。それ以上でも以下でもない。
 
しかしこの回答は明らかに素っ気なさが過ぎる
 
 
 
 
 
じゃあ、それならば過去の休日を全て思い出し、“過去の自分がどんな休日にも絶対に欠かさずやっていた活動” を、むりやり探し出して答えれば良いのだろうか。それも違う気がする。
 
 
 
何故ならば、その理屈でいくと「休みの日は何をしているんですか?」に対して、「小便」と答えることになってしまうからだ。
 
 
 
 
 
まだ出会って日も浅い、精神的な距離感のある間柄の他人に対し、満を持して「休みの日は小便をしている」と発表すること。
 
 
 
それだけは良くないだろう。その程度の常識は備わっている。
 
 
 
 
 
 
 
さて、休みの日に何をしているのかという質問は、“休みの日に決まってする何かが存在しているだろう” という仮説の元に成り立っている。
 
 
 
ここが、難しさの元凶だ。
 
 
 
ではこの構造を指摘し、なぜ先方がその仮定を置いたのかを問いただすのが正しい切り返しなのだろうか?
 
「休みの日は何をしてるんですか?」
 
 
 
「まず、私が休みの日に決まって何かをしているという仮定を置いた根拠を、御教示頂けますでしょうか?」
 
 
 
 
 
絶対に違うだろう。こんなややこしい人間とは、もうこれ以上会話をしたくない。二度と近寄らないで欲しい
 
 
 
こういう人間は得てして自分が論理的であることに対し、変にプライドを持っているのだ。そのくせ実態は大したことがない。あと多分真性包茎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
休みの日には何をしているのかという、非常に奥の深い、難しいこの質問。
 
 
 
ただでさえ難しいこの質問を更なる難問たらしめているのは、この質問が、一見シンプルで簡単な質問に見えるという点だ。
 
 
 
そんなに難しいことを聞いているわけでもない。サラっと答えられるような、気軽な質問
 
 
 
そう思わせてくることに、この質問の更なる難しさがある。少しでも回答に詰まってしまうと、やたら不気味なのだ。
 
 
 
 
 
想像してみて欲しい。「休みの日は何をしてるんですか?」と聞いてみたところ、相手が突如として、「え、え、え? え 休みの日、え〜っと休みの日か、え〜っとですね、休みの日は、え〜っと、え、ええ、え、E、EE」と唸り出す姿を。
 
 
 
 
 
「めっっっっちゃ怪しいことをしているに違いない」と思わないだろうか。いや、私なら絶対にそう思う。
 
 
 
ん?女子高生の盗撮、もしくは大麻の栽培でもしてるのかな?と勘ぐる。これ以上は聞かないでおこう、と思う
 
 
 
 
 
しかし、だからと言って回答に必要な時間を相手に誠実に伝えれば良いのかと言うと、それもまた絶対に違う。「休みの日は何をしてるんですか?」
 
 
 
「休みの日ですか?有難う御座います。5分ほど、お時間を頂いても宜しいでしょうか。」
 
不気味過ぎる
 
 
 
滑らかなコミュニケーションの途中で、突如として5分ほどお時間を貰うのは、失礼を通り越して不気味なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
つまり、纏めると、どういうことなのか。
 
 
 
質問自体は超難問でありながら、回答には実質的に時間制限が設けられており、直ぐに、正確に、滑らかに、完結に、気軽に答えないといけない。
 
 
 
これこそがこの質問の実態だ。
 
 
 
 
 
例えるのであれば、鬼畜のように難しい数学の超難問を会話の中で何の前触れもなく相手にぶつけ、それを数秒の内に答えるよう迫っているような感じだと思う。
 
「…あ、僕、出身は愛知なんです。」
 
 
 
「おお、奇遇ですね、僕も出身は愛知です。ところで、tan 1° が無理数であることを証明せよ。3秒以内。3. 2. 1....」
 
 
 
 
 
「nンッヴウvあwじぇgkぁあ?!?!?!??!?!」
 
 
 
 
 
こういうことだ。
 
 
 
 
 
こういうことが、ふとした会話の中で起こっている。少なくとも私にとって。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ここまでくると、もう、発想を変えるしかない。きっと、これは聞いてきた相手が悪いのだ。そうに違いない。
 
 
休みの日は何をしているのか。この禁断の質問を、口にしてしまったのだ





そう、会話というのは、それぞれが抱えた地雷を察知し、それを巧みにかわしながら最大限お互いの共通点を探っていく、1 on 1の戦い

命を掛けた戦い



年齢について、過去の失敗について、身体的特徴について、休みの日について。人は皆、固有のタブーを持っていて、誤ってそれに触れてしまった方は「敗北」







つまり、聞いてきた相手に分からせるしかないのだ。お前はついに聞いてしまった、ということを。地雷を踏んでしまった、ということを。



 
ゲームに敗北したという事実を。





つまり、この質問に対する、正しい回答はこうだ。





「休みの日は何をしているんですか?」

















チェックメイトです。」











「..おや?」









「ここまでですね。あなたの負けです。あなたは私の地雷を踏んでしまいました。 “休みの日は何をしているのか?”」









「これはこれは」









「師匠。あなた程の手練が、こんなにもサラっと踏んでくるとは思いませんでしたよ。ラストに相応しくない、あっけない幕切れでした。」











「随分と独特な地雷だったんですね。これは一本取られました。私の地雷を踏む気配も全くなかった。強くなりましたね。」









「いえ、あなたが弱くなったんです。師匠とはいえ、寄る年波には勝てませんか。ちなみに、師匠の地雷は何でしたか?」



















チェックメイト。」











「...!?」













「"師匠の地雷は何ですか?" とうとう私の地雷を踏んだようだな」













「な... んだ...!? ...と!!?」















「私がお前との戦い、人生最後の戦いにセットした地雷は、私自身の地雷の在処。」















「...そ..な..  ..ば..  ばかな...!」













「はじめから、地雷なんぞどこにも無かった... お前が...それを探し求めるまではな」











「な....! ....なz..だ.!!!? はじめから... 刺し違える..前提だった..のか..!? 俺に勝つ気など... なか...った..!?」











「早まったな... 若造... 勝利を確信したその瞬間から..貴様は地獄へと突き進んでいったのだ.. 



貴様を滅ぼしたのは私ではない...!! 貴様自身の... 慢心!!!!!



私と共に!!地獄へ!!!!落ちるが良いぃぃいいいいっ!!!」







「う.. うぉをををぁあけbらえrばpbrえsああ!!!あああああああああああああああ!!!!

おっっぱぁぁあああ〜い!! 揉みたあああ〜い!!!」
 
 
 
 
 
 
 
 
なんの話をしてたんでしたっけ? あ、休日だ。 休日の話だった。
 
 
みなさん休みの日ってなにしてます?

宴会シーズンに思うこと

 

「宴会芸をやらされるのが嫌過ぎて体育会系の会社に入ることを躊躇している」という話を聞いたことがある。





様々な会社の宴会芸に詳しい宴会芸の専門家ではないのでよく分からないが、まあ実際のところ、なんやかんや宴会芸をやらされる場面は今でもあるんだろうな〜と思う。忘年会で新人が芸をやる文化がある会社や部署はよく見かける。




普段から宴会芸に慣れ親しんでいる人間ならまだしも、そうでない人間にとって人前で「ウケ」を狙って面白いことをするというのは尋常ではない程の精神的な苦痛を伴うものだろう。その気持ちは、痛いほど分かる。




そんなわけで、今日は彼に宴会芸で成功を収めるに当たって有効な、斬新且つ抜本的なソリューションを提示したい。







まず、冷静に状況を見つめ直すと、宴会芸の類いには、ある最もオーソドックスな戦術があることに気がつくと思う。集団でやるものにせよ個人でやるものにせよ、非常に基本的な、汎用性の高い型が存在する。それが、「脱ぐ」だ。



この「脱ぐ」というのは、古今東西・老若男女に通用する、最も汎用性の高いギャグの一つだろう。脱ぐだけでは芸にならないが、まあ脱いで何かすれば、ちょっとは面白い。



実際、サークルの飲み会などでも、「脱ぐ」を選択する割合は凄かった。次から次へと脱いでいく。脱いで脱いで脱ぎまくる。まるで脱衣所だ。



服を脱ぎ、真っ裸になって何かをする。服を脱ぐと上半身に何かしら文字が書いてある。こういった、「脱ぐ」に絡めたネタは定番中の定番であり、決して真新しいものではない。結果的に、極めて無難な笑いをもたらす。



脱ぐ…か。悪くはないが、何かヒネりがないな…。もう脱ぐのは見飽きたな…。実際のところ、誰しもがそう思っている。



そこで僕から彼に提案させて頂きたいのは、この「宴会芸と言ったら脱ぐ」という常識を逆手にとった、究極の宴会芸、その名も











「着る」だ。









「着る」という、究極の一発ギャグ
さて、この「着る」というのが、どのように宴会芸になるのか。まだ想像もついていないだろうと思う。手順はこうだ。



まず、宴会芸の日にち、それが忘年会の日でも良いし、決められた一発芸大会の日でも良い。この決められた宴会芸の日までの数カ月間、あなたは徹底して「全裸」で行動する。



ここがそれなりのハードルになることは分かっているが、宴会芸で圧倒的な成果を出すために必要不可欠な、大切な期間だ。どうにか踏ん張って、ひたすら全裸で行動して欲しい。全裸で出社し、全裸で仕事をする。全裸マン。



服を全く着ること無く会社に現れたあなたを見て、上司は何と言うだろうか?「どっひゃ〜」と言うだろう。間違いない。どっひゃ〜と言いながら腰を抜かして椅子から転げ落ちるに違いない。




あなたはドン引きする人々を全く無視し、え? サルもゴリラも全裸なのに、なに服とか着ちゃってるんすか? しょーもな、という感じの理論を展開する。筋が通っているようで全く通っていない。狂気の猥褻物陳列罪人間。





「全裸で生活する会社員」の噂は、恐らくあなたが思うよりも早く全社的に知れ渡ることになる。そうですね、半日もあれば、5万人規模の会社でもほぼ全員が知っているくらいには話題になるでしょう。全裸というのは、それくらいインパクトのある活動だ。





さあ、そんな中迎えた一発芸大会の日。ギャグを披露するあなたの同期が、次々と満を持して服を脱いでいくが、どうも、あまり笑いが起きていない。なぜか。それは観客席で見ているあなたという孤高のビジネスマンが、自分の番でもないのに、既に「全裸」だからだ。



既に鬼のように全裸なやつがいる環境で遅ればせながら全裸になってみたところで、大した笑いは起こらない。あなたの徹底した全裸戦略により、全裸という活動の市場価値自体が下がったのである。



受給バランスという観点から纏め直すと、これはあなたがマーケットに対して過剰に「全裸」を供給したことにより、全裸が歪に余剰なバランスになってしまっている状態だ。全裸過多。そこであなたの番になる。



ドヤ顔で服を脱ぎ散っていった、その同期達の屍を踏みつぶすように、ハナから思いっきり全裸のあなたは、ゆっくりと壇上に上がる。脱ぐことで笑いがとれると勘違いした輩による爆死ショーは、あなたという怪物を際立たせるための、前座だったのだ。





今、スポットライトは、あなただけを照らしている。先輩社員達が、全裸のあなたの動きを食い入るように見つめている。こいつ、何をするんだ。もう脱ぐ服はないぞ。あなたは何も言わず、突如として、服を… 着る!







「き… 着た…?!?!?」「…あ…あいつ… 宴会芸で… 服を… 着た…だと!?」「ぬぅぉおおお!!」





脱ぐがベースとなっていた宴会芸の空間において、あなたの「着る」はまさに逆張りのイノベーティブな一手であり、観客はスタンディングオベーション、涙を流しながら狂喜乱舞。



「なんて斬新なんだ… まさか、宴会芸で服を、『着る』とは…」「あいつ… この瞬間ために、ずっと脱いでたのか…!」「予想だにしていなかった… やられたぜ…!!!」 「oh my gosh, men!!!」





あなたの「着る」という独創的なギャグは伝説の宴会芸として殿堂入りし、あなたは一夜にして圧倒的な地位と尋常ではない程の名誉を手にしたのだ。








さて以上の説明で、「脱ぐ」を逆手にとった「着る」により一躍スターダムにのし上がれる仕組みが分かったと思う。その後の世界の話をしたい。



「脱ぐ」が当たり前となり、「脱ぐ」の価値が落ちていた宴会芸市場にあなたが投下した「着る」というアトミックボムは、人々の常識をブチ壊すことになった。



伝説のギャグ「着る」の前と後で、宴会芸の、いや人類の歴史は、完全に二分されたと言って良い。







その後、あなたの周りの多くの人々は来たる宴会芸の日に備え、いつ何時たりとも「着られる」よう、日々を全裸で過ごすようになる。世界が、あなたというカリスマを追随するのだ。



サルもゴリラもオランウータンも全裸なのに、なに、服とか着ちゃってるんすか? 普通に考えて全裸でしょ。これこそが人々の基本的なスタンス。無論、会社にいる人達も、全て全裸。会社と言えば全裸。全裸が礼儀。



それほどまでに全裸な環境において、宴会芸の定番はと言えば勿論、「ドヤ着衣」である。かつてあなたが放った斬新なギャグが、時を経てデファクトスタンダードとなった。



人前に出てきて、突如として着衣。普段全裸なのに、突然……着る! いつも脱いでるのに急に着ると、なんか、ちょっとだけ面白い。これが最もオーソドックスな、汎用性の高いギャグだ。





さて、もうお気づきかもしれないが、この状況こそがチャンスである。人々を出し抜き度肝を抜かす準備は整った。



全員が当然のように全裸で出社している中、あなたというイノベーターは意を決し、なんと「服を着た状態で」出社するのだ。



服を着た状態で会社に現れたあなたを見て、当然のように真っ裸の上司は股間を丸出しにしながら、何と言うだろうか?「どっひゃ〜」と言うだろう。間違いない。股間丸出しでどっひゃ〜と言いながら腰を抜かして椅子から転げ落ちて股間を丸出しにするに違いない。





そして一発芸大会の日が訪れる。あなたの前にギャグを披露する同期が全裸で壇上にあがり次々と服を着ていくが、どうも、あまり笑いが起きていない。なぜか。それは観客席で見ているあなたという孤高のビジネスマンが、自分の番でもないのに、既に「服を着ている」からだ!!!





既に鬼のように服を着ているやつがいる環境で遅ればせながら服を着てみたところで、大した笑いは起こらない。あなたの徹底した着衣戦略により、着衣という活動の市場価値自体が下がったのである。そこであなたの番が訪れる。







ドヤ顔で着衣し散っていった、安易な服にまみれた同期達の屍を踏みつぶすように、はなからバッチリ服を着ているあなたはゆっくりと壇上に上がる。着ることで笑いがとれると勘違いした輩による爆死ショーは、この瞬間、あなたという怪物を輝かせるための… 前座だったのだ!!!!





今、スポットライトは、あなただけを照らしている。先輩社員達が、あなたの動きを食い入るように見つめている。なんだ、あいつどうするつもりだ。もう着る服はないぞ……。あなたは何も言わず、突如として、服を…… 服を…… 服を… 



 

 

 

 

 

脱ぐ!!!!!!







 

「ぬ… 脱いだ…!?!!?!! だと…?!?!?」「…あ…あいつ… 服を脱いだぞ…!!?!?」「おい、どうなってんだ?!!?!? オいおいおい!?!」「あいつ、まさか、このためにずっと着てたのか!?!?!?」「ohhhhh Jesus Christttt, this is a pen, and he is Tom!!!!」







つまり、
何が言いたいのか。この話で本当に伝えたいのは、「万物は流転する」ということである。「脱ぐ」と「着る」は、どちらかがどちらかの上位に位置するというわけではない。



古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが提言した通り、あらゆる物事、この宇宙に存在する全ては絶えず生成と消滅を繰り返すのである。その循環からは、何人たりとも逃れることは出来ない。



脱衣と着衣。それは「昼」と「夜」のように表裏一体であり、更に言えば「生」と「死」のよう循環的な関係にある。



人は脱ぎ、そして人は着る。





「宴会芸」という一見無駄に見える文化は、人間の逃れることの出来ない森羅万象の本質を、ただ、静かに伝えんとしているのだ。







…と、ここまで宴会芸について深掘りすれば、もうワケが分からなくなって宴会芸への精神的な抵抗が薄れるんじゃないかと思うんです。宴会芸が、「森羅万象の本質」を伝えようとしてた。その場合、もう、恥ずかしいとか言ってる場合ではないでしょう。それを、宴会芸を怖がる人に伝えたい

 


まぁ今日はこんな感じです。