バンドを1年ぐらいお休みして思う事
長かった夏が終わりの気配を漂わせ、湿度も下がり沖縄もやっと涼しくなってきたと黄昏ています。
ずっとやっていたバンド活動・音楽活動をお休みし、仕事をして、飯を食い、サウナに入り、また仕事をする。
そんな日々を送っています。
また今回もダラダラと長ったらしいジメジメとした湿度の高いブログになると思います。一ミクロンも面白いことはないと思いますので、時間に追われている方、人生が有意義になっている人たちは、ブラウザバックを推奨します。
ライブ活動をしないし、楽器もろくに触っていない。
今までの僕の人生の中にはなかった時間が流れており、最初は戸惑ったものの、次第にそれも慣れてきているこの日常に、若干の恐怖を抱いております。
音楽活動をお休みしているからといって、音楽を聴かない、ライブを見ないという事はしておらず。むしろもっと音楽を聴くようになり、去年より様々なアーティスト、音楽、芸術を知る機会になっています。
そして楽器を触っていない分、自分の人生、楽器のプレイングやアプローチ、リズムのとらえ方、音符の感じ方、タイム感などが、客観的に見れるようにもなりました。
この感覚を理解できただけでも、かなり儲けもののような気がしています。
以前よりも料理をするようになり、メキメキと料理の腕が上がっていることを実感しております。(当社比)
料理で大切なのはバランス、調味料と食材、火加減などの調和によって良い料理が出来上がると僕は思います。
これは音楽、バンドにおいてのアンサンブル、グルーヴに通ずるものがあると僕は思っていて、バンドの火加減を担うのが、ドラムなのではないかと改めて思いました。
頭では何となくわかっていたことが、身体に、心ですこし理解できるようになった。
これも大きな成長なのではないかなと思います。むしろ今更かよと思う人もいるとは思いますが、なにぶん凡人なもので、理解が遅いんです。
少し前に話題になっていた(一部地域主にドラマー)グルーヴとはなんぞや、グルーヴとはこうだ!みたいな議論がありました。
僕個人としては、非常にナンセンスな話題だなと静観していました。
ミュージシャンと名乗っているのであれば四の五の言わずに演奏で魅せんかい!というのが僕個人の感想で、グルーヴというものはこうあるべきものだ。という定義は、所詮その人の感想なので、俺の意見が正しい!!と強要するものではないと思うし、その時点でグルーヴはなくなっている気がしています。
話が逸れてしまいました。つまりは料理がうまくなるとグルーヴが良くなるんじゃないかなと思いましたという感想であり暴論です。
さて、このようにバンドや音楽活動から離れ、ある程度知識があり、ある程度上手な人がどうなると思いますか?
正解は「老害になる」です。
そう、今僕はまさに、老害への道を一歩踏み出しているのかもしれません。
アンサンブルが~グルーヴが~、このコード進行が~、メロディが~
っっっっっかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!
なんだこのくそみたいな意見は、考えは!!!俺は!!!そんなに!!!偉かったですか!!??
そんなに達観できるほど!!丁寧に毎日暮らしてるんですか!?オイ!!俺!!どうなんだ!オイこら!!
オマエはあれか!?酒飲んで!タバコ吸って自堕落な生活を送ってるだけなのに!世の中を達観したような死生観を得る大学生か!!??そんな学生は単位落として留年して!仕送りなくなってライフライン全滅しろ!!!違う!!!怒りの矛先がちがう!!!
危うく老害になるところでした。
人生で2番目ぐらいに嫌いです老害、1位はアボカド。
ふと気になったんですけどアボカドってアボカドなんですか?それともアボガド?
いばらきなのかいばらぎなのか、バドミントンなのかバトミントンなのか、
ドロケイなのかケイドロなのか、この地域の大富豪はイレブンバックはあるのか、それとも階段で革命はあるのかないのか。箱の中には生きていると同時に死んでもいる猫は存在するのか。
え~っとつまりはですね。なんだかんだで元気です。
ドラムは叩いていないけど、うまくなった気がしています。はい、気分だけです。イエイ
バレンタインチョコをもらうために今から心がけること
バレンタイン、そう2/14にくるあの日のことです。
2/14に来る日のことを、半年以上前にするのは頭がおかしいと思うだろうか?
そんなことはない、そんなに甘っちょろい話じゃないのだ。
むしろ今からしっかりと準備することが、バレンタイン戦争に勝利するため
必要なのだ。
学校で、バイト先で、職場で。バレンタインデーにチョコレートをたくさん貰うには、一体どうすれば良いのでしょうか。
一度でいいから両手に抱えきれないほどのチョコレートを携え、「こんなに食えないわああああ〜」と言いながら悠然と帰路につき、肩で風を切って闊歩しながらこれ見よがしに男友達の前を通ってみたい。
溢れんばかりのチョコレートの山を見て「お、お前凄いな……」と言ってくる男友達に対し、「いやあ〜、こんなのギリチョコだよ、ギリチョコ。付き合いで貰ってるだけだよ。」と言いつつ全身から満足気な空気を解き放ち、そのまま、そっと男友達に嫌われてみたい。一度でいいから、そんな圧倒的な勝ち組になってみたい。
そんな風に思ったことはありませんか?
チョコレートに埋もれて死にかける為には、一体全体バレンタインデーに向けて何をすればいいのか。
ここからは僕の過去の反省から立てた仮説、いや妄想ベースではありますが、まずはチョコレートを「欲しがる」フェーズを導入する必要があるのではないかと思います。
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チョコレートを欲しがってるのかどうか分からない男性には、女性もチョコレートを渡しにくいですよね? もう女性が実際どう思っているのかはこの際関係なく「少なくとも自分はチョコレートを欲しいと思っている」ということを力強く宣言する。まずは、その努力が大切です。2月の初旬あたりからそれとなくチョコレートを欲している旨を周りに吹き込むべきでしょう。
学校や職場で、不自然なほどの大声で独り言を呟くのがいいと思います。「いや〜最近糖質が足りてないんだよなああ」
「ああ〜甘いもの食べたいなあ」「ああああ〜、甘いうえに、黒いもの食べたいなあ」「そおいえば、最近、カカオマスダイエット始めたんだよなあ。カカオマスを原料とした食製品落ちてないかなあ」
すると、周囲の女性の脳裏には貴方の不自然な独り言が刷り込まれていき、それが蓄積することでサブリミナル効果が現れ始めます。チョコレートを見るたび貴方を連想するようになるのです。「あれ……? チョコレートって、黒くて甘い……あ、そういえばあの人……」「あら……? チョコレートって、カカオマスを原料とした食製品……あ、そういえばあの人……」
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これにて第一フェーズは完了です。しかし、周囲の女性達が脳内でチョコレートと貴方を関連づけたからといって、油断してはいけません。それだけでチョコレートが貰えるほど、バレンタインデーという戦場は甘くないのです。
女性が貴方のことを好いているならまだしも、そうでない状況であれば、まだ貴方の為にチョコレートを買うまでには至っていません。「チョコレートをあの人に渡したい」と、女性から思ってもらう必要があるのです。
とはいえ、突然女性に愛してもらうのが難しい以上、ここは「チョコレートを渡すことで、何か物理的なメリットを得られる」と判断してもらうことが大切です。だから「この人はチョコレートの対価に、何か物凄いものをホワイトデーに返してくれるんじゃないだろうか」という印象を、女性達の脳裏に刷り込むことにしましょう。
なお、ここでも手法は独り言。大声で独り言をボヤき、彼女達にとっては驚異的となるインセンティブをちらつかせます。「去年のホワイトデーは大変だったなああ〜。確か、手作りチョコレートのお返しとして手作り摩天楼を建設して、女性達に配布したんだよなあ。摩天楼、喜んでくれたかなあ」
「いやああ〜ホワイトデーの為に今年も国から数兆円規模の予算取り付けるの、面倒くさいなあ」「今年はお返しとして優良企業の“株”を配ろうかなあ。ただ、自分のホワイトデーの買い物が株式市場に影響を与えてしまわないか心配だなあ」「あなたのホワイトデーのお返しだけで生計を立てていますと言っていたあの女性、元気かなあ」
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ここまでくれば、周りの女性達は相当高いモチベーションでチョコレートを渡そうと思っているはずです。間違い無く、それなりに魂のこもったチョコレートを携えて2月14日を迎えることでしょう。あとは、当日の立ち居振る舞いのみ。
当日は、チョコレート欲しさ故に挙動不審になってはいけません。チョコレートは当然貰えるものと考え、堂々と、王者の風格すら漂わせながら学校や職場に出向きましょう。正装の領域を逸脱した、ド派手なタキシードを身に纏い、シャンと胸を張ってドヤ顔で歩きます。胸は恐ろしいほど張ってください。鳩胸です。
また、チョコレートを直接手渡すのには抵抗があるという女性もいるかもしれません。そのようなシャイで内気な方のため、ドデカい郵便ポストのようなものを持参して、自分の席の前に鎮座させておきましょう。
チョコレートはこちら、と書かれた不自然なポスト。入り口は郵便ポスト同様「小型」と「大型」に分かれており、サイズに応じてチョコレートが投函できる仕様となっています。
なお、ここは「小型」「大型」ではなく、ゴミ箱同様「燃えるチョコレート」と「燃えないチョコレート」としても大丈夫です。チョコレートは基本的に燃えるはずなので、燃えないチョコレートを作ってきた女性は相当な技術の持ち主です。科学者です。
いずれにしても、当日はドデカイ郵便ポストと信じられないサイズの風呂敷を携え、自分の席で胡座をかきながら周囲の女性を睨みつけることにしましょう。そして女性と目が合うたびに大声で「shall we dance!?」。その際も、王者の風格だけは忘れないようにしましょう。
これでシミュレーションは完璧ですね。これで次に来るバレンタインは、学校でもバイト先でも職場でも、不自然なまでに大量のチョコを携えられるはずです。
一緒に飲み会で「桃園の誓い」をしませんか?
昔、友人が飲み会の乾杯のタイミングで「我ら、生まれた時は違えども、死すべき時は同じなり~!」とやりだした。
「あ、これいいな」と思った僕は、それ以来積極的にパクろうと思い、乾杯のタイミングでこれを言うことにしている。
しかしなかなかこのタイミングに出会うことは少ないし、いざ来ても忘れていたりする。
「何の話?」と思った人も中にはいるだろう。『三国志』の話である。
この言葉は三国志の登場人物である劉備、関羽、張飛の3人が義兄弟になった時のものだ。「あたいらは生まれた場所も時間も違うけど、死ぬ時は同じ時に同じ場所で死のうや」という3人の誓いの言葉である。「桃園の誓い」と聞けば「ああ、あれか」とピンとくる人もいるだろう。
同級生や、年上の多い集まりでこれをやると「ほう、三国志ですか…」などと盛り上がるのだけど、若い人たち、特に女性がいる場所でこれをやると「しらける卍」みたいな顔をされる。だから、読んでください。三国志を。。僕は乾杯のタイミングでみんなと「桃園の誓い」をやりたいのである。
ちなみにここで言う三国志は横山光輝先生の三国志のことです。
唐突に「三国志」を「読め」と言ったところで、
「何を言ってるんだこのくされメガネは?」くらいにしか思わないのだろうけど、貴方が女性であれ若い世代であれ、三国志を読んだことがないのであれば、ぜひ一度、試しにSNSで「マンガの三国志って、あれ面白いの?」とつぶやいてほしい。
そうすると「ジャーン! ジャーン!」とドラが鳴り響き、埋伏していた「三国志勢」が一斉に立ち上がって「マジで読むべきっすよ」「あれは名作です」「キングダム好きなら是非!」「孔明の罠だ!」などと猛射してくるはずである。
三国志が好きな人はどこにでもいる。しかし「それがし、三国志が大好きでございます!」と激しくアピールする人はあんまり見ない。「ジョジョ立ち」を写真にあげている人は居ても、「長坂橋の張飛の仁王立ち」や「温州蜜柑でございます」などを写真にしている人を見たことがない。
というか三国志と聞くと、三国無双が出てくる人がいるだろう。
もちろんあれも面白いんだけど、三国志を読んでいると面白さがより増すので、是非。
三国志は古い名作であり、あらゆる人に読みつがれ、もはや社会の骨肉と化している。いわば古典と呼ばれるしろものかもしれない。
なので「今さら言うまでもないよね」という域にまで達しているのが三国志なのである。普段アピールしていないあの人だって三国志勢だし、三国志勢は目には見えないだけで本当にどこにでもいる。
三国志勢は時に公務員、時にサラリーマン、時に経営者に化けて社会に溶け込んでいるのだけど、ひとたび「ジャーン! ジャーン!」とドラが鳴り響くと一斉にスーツを脱ぎ捨て、甲冑に着替えて虎牢関にて武勇を見せるのである。
もう一度言おう。三国志勢は、目に見えないだけでどこにでもいる。社会の骨肉と化している。もし貴方がこの作品を読んだことがないのであれば読んでほしい。そして三国志勢の仲間入りをしてほしいのだ。
貴方の心の国が蜀なのか義なのか呉なのか、そこは自由だが、
僕は飲み会の席で「桃園の誓い」をやりたいのである。
ちなみに僕は 張遼が大好きです。
合肥での 張遼はしびれる本当に、
「ちょうどいい」ものが年々好きになってくる。
自慢でもなんでもないのだが、僕は日に4~5杯はコーヒーを飲む。
朝起きたら飲むし、仕事中も飲むし、昼食の後にも飲むし、喫煙をしながらも飲むし、
仕事が佳境に差し掛かるタイミングや、帰宅して本を読んだり、ゲームをしたりするときも飲みたくなる。
おそらくだが、僕はそうとうコーヒーが好きだ。
いい年齢になった大人が、こういった話をすると、たいていが「俺はコーヒーに関してはうるさい人間だぞ」という香りを漂わせがちですが、僕にはそういった意図は全くなく、かといって「味の違いがわかる大人であること」を拒絶するような、露悪的な気持ちもない。
なぜなら、僕の好きなコーヒーはセブンイレブンのマシンで淹れるコーヒーだからである。次点ではスタバの。
だから、豆の種類や淹れ方、焙煎の具合やお気に入りのコーヒーショップまで、何一つ語ることができない僕は、コーヒー好きを名乗るのがおこがましいのではないかと考え、いつも口ごもってしまう。
だけれども、僕は言いたい。セブンのコーヒー美味しくない?最近やっと沖縄にもできたけど、セブンのコーヒーって「ちょうどいい」と思わない?僕は思う。
もちろんその「ちょうどいい」というのは、モノの価値の高低で言いたいわけではないし、グルメに対しての価値の高低を言いたいわけでもない。
僕にとってのコーヒーのちょうどよさというのは、自分に慣れた味がいつも同じように手に入るという事なのだ。僕がなにかを好きになるには、そういう日常の「ちょうどよさ」を感じられるかどうかが、大きなウェイトを占めるのでしょう。
僕にはもったいないぐらいの親友がいて、そいつもコーヒーが好きなのだ。
高校生の時に、某コーヒーショップでバイトをしており、僕も同じところでバイトをしていた。
店長から、コーヒーならいくらでも飲んでいいからね!と言われ、僕と親友は、やった!と喜びコーヒーを飲んだ。
しかし本当に申し訳ないが、全然おいしくなかった。二人して飲んだ瞬間に、「マッズ!」と言って顔をしかめた。あの時の店長の悲しそうな顔は未だに忘れられない。
その親友とはほぼ高校生活を共にしてきて、遊ぶ時にはコーヒーを飲んでいた。
今考えてみると調子にのっているガキやなとも思うけど、僕たちの間にはコーヒーがあった。
コーヒーを飲むたびに、コーヒーという文字列を見るたびに、お互いの存在が思い浮かぶ。コーヒーとの付き合いは15年ほどたったであろう。ゆったりなのか、あっという間なのか、流れたコーヒーとの時間は僕と親友の半生とも言えそうで、懐古でもなく、これから迎える時間でさえ、コーヒーと親友の姿をありありと想像できる。
僕たち二人にとって、コーヒーの「ちょうどいい」とは、時間の流れなのかもしれない。
味も風景も、思い出も人格さえも、いつでも思い出し、想像することができる。
コーヒーを介せば、過去も未来も地続きの時間として、早送りも、巻き戻しもできる。
コーヒーは二人の時間を伸び縮みさせる、四次元の飲み物なのだ。
そんな「ちょうどいい」をこれからも僕は、いくつも持てるのだろう。
1日3杯のコーヒー習慣がいい人生をつくる。「3 Coffee a Day」というネスカフェさんの考え方に共感して、今日のブログを書きました。
コーヒーが苦手じゃなかったら、それぞれにちょうどいいコーヒーと付き合いましょう。
ちなみにお家で使ってますよ、ネスカフェゴールドブレンド バリスタ
https://shop.nestle.jp/front/contents/machine/nba/spot/
ずぼらな僕にもちょうどよく使えてます。
時は流れ、人は変わり、ずいぶんと重ね着をした気がする。
気が付けばもう8月の中旬に差し掛かるようですが、
この過ぎ行く時間の速さはいったいぜんたいどういうことなのか。
魔法なのか、あるいはスタンド能力か、詐欺かなにかか、もしくは加齢による不具合なのか。このブログを読んでいただいている稀有なみなさまの年齢などは知る由もありませんが、老いも若きも、少なからずなにかしらの変遷を経て、現在のあなたに至っていると思います。
変遷と言いましたが、その様子は様々なものがあると思います。
進学や就職、離職、転職、結婚や出産というような、自分史を記述すれば典型的なピリオドになりえる転機はもちろんのこと、推しが変わる。新しい趣味ができる。
好きな食べ物が変わった。トラウマレベルの作品に出会った。生きる目的とか価値観が変わることも変遷と呼べるでしょう。
なにかを目指したり、なにかを諦めたり、夢や挫折に関わる出来事も、自分が変遷するきっかけとしてカウントすることと思います。
自分のことをそっと振り返ると、すぐに自分のターニングポイントが思い浮かぶ。
こんな私にだって、挫折と呼ぶと、なんだか自己愛がつきまとうようで気恥ずかしいけれど、なにかを目指して諦めたり、なにかに選ばれなくて離れてしまった経験はある。
自分の変遷だけでも思い当たるのだから、家族だって、友人だって、変化する。
久方ぶりに会ったときなど驚くほど変貌していることがある。
人は変わる。私とは別の場所で、人は変わっていくのだ。
そしてこれはとても現代的な現象だと思うのだけれども、SNSを眺める私たちは、いつのまにか友人知人の変遷がうっすら見えるようになってしまっている。
かつては。道でばったりとか同窓会に出てみたりとか、友人の結婚式だったりといった。その再会までに流れていたはずの、疎遠から空白にいたる時間が消え、旧友が変化する様子がSNSを通して何となく目に入るようになった。
それは、結婚式に招待されるほどの間柄でもない友人知人の「結婚しました」とか「子どもが生まれました!」といった素直にいいねを押せる人生の契機。
一方でかつて同じものを目指したり、似たジャンルで表現を共にした友人や後輩は、そこからフェードアウトしていく様子。あるいは自分の経験から見て、「そちらはあまり見通しの良い場所ではないぞ」と思える方へ、進んでいる予感。それらが、SNSの投稿などでうっすら知覚される時、いいねでも、コメントするでもなく、私はただ眺めるままに、頭の中で「人は変わるものだ」というつぶやきを繰り返す。
その時の気持ちは寂しさというのか、穏やかだけど、底にひっそり渦巻くこの感情は、なんと名付けたらよいものか。
このように変貌に直面し、意識レベルがかなり高くなった旧友や後輩。
すっかり変わってしまった友人に、逆にすっかり変わってしまったと謎の幻滅をされるという経験がある。
会うことのなかった空白の機関の出来事は、お互いに関知しえないことだし、友人が変わっていくことは無理もないことだけど、それに直面した時、自分の無力さを痛感させられる。
そんな時、いったん友人との関係を空白の前まで巻き戻したい気持ちになる。
「あの頃はよかった」という後ろ向きに聞こえるし、老害かよと言われそうな言葉だが、お互いがフラットな気持ちだった時間に巻き戻して、顔お合わせて話がしたい。
だが、巻き戻すのはとても難しい、友人の変貌具合もそうだが、なにより自分が「大人」の側へすっかり歩みを進めてしまっているのだ。
開いてしまった距離は、簡単に詰めることはできない。
私個人は別に友人がやっていることや、謎のセミナーなどの是非を問いたいわけではなくて、お互いの間にある埋めがたい距離に直面をした時、自分がとれる行動の少なさに戸惑い、そして自分自身の変遷を実感したのだ。
この実感は、大人になるにつれて様々に獲得した世間体を重ね着したんだという実感である。
愛想笑いをするときの衣装、会社員として真面目に勤めるふりをする衣装。しっかりものをぬかりなくアピールしたいときのコーデ、私たちは不器用な生き物だから、着替えるのではなく、重ね着をしてしまう。そしてそんな世間体で、着膨れするばかりで、身動きがとりにくくなるのだ。
だからせめて着膨れする前の、気心の知れた友人とは、お互いに重ね着を脱いだ状態で会いたいと願うのだけど、もう脱げない。そこには寂しさというか、諦めのような。
それでいて自分が選んだ変遷の覚悟のような、なんとも形容しがたい宙ぶらりんな気持ち。それがリアリティを帯びて迫ってくる。
過去の変遷の結果なんて、いつもすこし先の未来にあるのだから、この着膨れした重ね着を脱ぐことはできないのだ。
私も着膨れしていく一方だ。着やせする大人にあこがれるが、そんな人をまだ私は見たことがない。