東京への憧れと思いやりの話
「東京」とつく曲名は良い曲の可能性が非常に高い。
などと、あい変わらずわけのわからないことを言っています。
上京したことも、東京で暮らしたことはないけれど、くるりの東京という曲が好きで、感動してしまいます。
東京に縁がないわけではなく、バンドのツアーだったり、ライブ、用事や仕事でちょいちょいと東京へ行くことがある。
そして行くたびに思う事が、東京は人が多い、私はそれなりに大都市である。名古屋出身ではあるが、「なんだ…?祭りか…?」と思うほどには、東京は人がひしめき合っている。
これだけ人が多いのだから無理もない事だが、日本の中心は名実ともにずっと東京である。現実社会もネットも、飛び交うニュースや話題は「東京のこと」がデフォルト。
そしてこれは、私と同じ非東京民の方は思うことだとは思うのだが、SNSで飛び交うイベント情報に、いかに都道府県が明記されないか。目につく告知の情報を読む。
日時と会場はわかった。とても魅力的だ。行きたい。だが非東京民にとってまずなによりも知りたいのは、それは東京の話なのか、そうではないのかなのだ。
日本の住所表記というものは、都道府県・市町村・番地とマップを拡大すればどんどんと狭くなる。
しかし、いくら「東京がデフォルト」だからといって、都道府県を省略するのはやめてほしい。特に、ライブハウスやギャラリーなど、名前に東京が冠されていないような小さな会場の場合、我々にとっては問題なのです。良いイベントという機会そのものに飢えている非東京民の存在を、どうか忘れないでほしい。
いくらネットやSNSが発達したとしても、場所や時間を飛び越えるにはまだ限界がある。どこでもドアなんてどこにもない。画面越しにどこかの出来事を簡単に視聴できるようになったとはいっても、行って会う。行って見る。というような、時間と場所をリアルタイムに共有する機会は、お金の問題も含め、東京と、東京以外の間に厳然たる格差が生まれる。
だからこそ東京は、多くの人に「上京」という憧れを駆動させてきたのだろうなと思う。
なぜこんな話になったかというと、職場で、「修学旅行はどこへ行ったのか」トークが生まれ、沖縄は東京へ行くことが多いということが分かったからだ。
確かに言われてみれば、沖縄から東京へ行くときに、修学旅行生の団体に遭遇したことが何度もある。
思い返せば皆、東京へ強い憧れがあり、舞い上がっている様子だった。
思春期にいっそう、東京への憧れは強烈に作用するんだなと今、非常に感じる。
きっと今も昔も修学旅行生は憧れを抱え、精いっぱい背伸びをして東京を楽しむのだろう。
そして帰りの飛行機では高度を下げ、地元に戻るにつれて背伸びした修学旅行生はいつもの様子に戻っていくのだろう。
そんな姿を見ると、どこかそこはやさしげにも感じる。
地方と東京を語るとき、それは勝ち負けの話に発展しがちである。
名古屋にいるときは特にそれを感じた。「東京に負けていない私たち」という自負は何となく理解はできる。ただそれ以上に私の中にはどこにいても非東京民の視点があり、
それは「私のいる場所が当たり前の場所ではない」という感覚というか視点だ。
私が今立っている場所は、社会の中心ではない。当たり前とされるものは向こう側にあり、ここは多数派が占める場所ではない。だからこそ、私は世界をほんの少しだけ広く、多様に感じることができるのかもしれない。
大げさに言ってしまえば、地方の人間というのは辺境にいるからこそ、いつも中心が見えているのだ。当たり前とされる場所にいる人は、その当たり前に無自覚なことが多いのではないだろうか。なぜなら当たり前というのは、当たり前としてこれ以上考慮をする必要などないことなのだから。それは常識というものが「そんなの常識だし」という理由で頑なに常識であり続ける様子にどこか似ている。
結局当たり前はいつも、当たり前でない人によって、姿かたちを与えられる。
言い換えれば、あたりまで得ない場所にいる人こそ、当たり前を考えられるこができるのである。たとえその視線や考えが憧れであったとしても、今ここにいない人や物、場所を想像できる能力のことを、思いやりと呼ぶのだろうと思う。
だからこそ私は、背伸びしきって、地元にもどり、ほぐれた姿になるあの子達が、やさしい人だと私は感じた。