それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

においを連れて

 

沖縄も梅雨が明け、うだるような熱気と共に夏を連れてきた。

 

梅雨の時は当たり前だが長い雨が続き、洗濯物は乾かない、水の中で生活をしているのかと錯覚するぐらいの湿度にゲンナリする。

その中でなにが一番嫌かと言うと、移動したら靴が濡れる。これが一番嫌なのだ。

大体人類は月にも行ったし、AIも発達しているとか言われるのに、降りかかる雨に対して傘と長靴ぐらいしか対抗策がないというのは、人類の叡智とはなんなのかと思ってしまう。

 

長い雨は気分が落ちることが多いものだが、同じ雨でも、ふと外に出た時に感じる。

アスファルトが濡れる匂いで感じる雨はとても好きで、雨粒を見たわけでも、雨音を聞いたわけでもなくなく、嗅覚で雨を感じる瞬間。

 

伝達のスピードや精度では、「音」や「光」にはかなわないはずの匂いが、なぜか先んじてその様子や気配を伝えてくる感覚、これをなんと呼べばよいのかはわからない。

 

においというものはいつも少し抽象的で、においで知る、思い出すというものは、視覚や聴覚に比べてどこか茫洋さをともなうもので、その先にあるもの、対象を情報として把握するのではなく、気配のような、ぼんやりとしたものを伝える。

 

私たちは気配を鼻で感じる生き物なのだ。

 

隣の食卓の気配、お風呂上がりの気配、たばこの気配、好きだった人の気配、嫌いな人の気配、知らない人の気配、いろんな気配を、この世の中は孕んでいる。

 

においで感じる気配というものは、どこかセンチメンタルな部分を刺激する作用があり、時として人を苦しめ、時として人を救ったりもする。

直接的になにかをするわけではなく、さりげなく刺激するこのしたたかさが、心地よい

 

 

そういった気配をにおいで感じ、おなかを空かせたり、思い出に浸ったりして私たちは生きていく、そしてまた一つのにおいを残していくのだなと、この酷暑の中で思う。

 

そしてこの酷暑の中で醸し出されるにおい、いわゆる汗のにおいで人を不快にさせるのかもしれないなと気が付き、私はさりげなく自分の脇の匂いを嗅ぐのである。

 

あぁ夏が始まったのだと、私は感じた。