それ的なアレ

沖縄でドラムを叩く人、友人やバンドメンバーからはサイコパスと言われている心優しいゴミが描く壮大なゴミブログ

宴会シーズンに思うこと

 

「宴会芸をやらされるのが嫌過ぎて体育会系の会社に入ることを躊躇している」という話を聞いたことがある。





様々な会社の宴会芸に詳しい宴会芸の専門家ではないのでよく分からないが、まあ実際のところ、なんやかんや宴会芸をやらされる場面は今でもあるんだろうな〜と思う。忘年会で新人が芸をやる文化がある会社や部署はよく見かける。




普段から宴会芸に慣れ親しんでいる人間ならまだしも、そうでない人間にとって人前で「ウケ」を狙って面白いことをするというのは尋常ではない程の精神的な苦痛を伴うものだろう。その気持ちは、痛いほど分かる。




そんなわけで、今日は彼に宴会芸で成功を収めるに当たって有効な、斬新且つ抜本的なソリューションを提示したい。







まず、冷静に状況を見つめ直すと、宴会芸の類いには、ある最もオーソドックスな戦術があることに気がつくと思う。集団でやるものにせよ個人でやるものにせよ、非常に基本的な、汎用性の高い型が存在する。それが、「脱ぐ」だ。



この「脱ぐ」というのは、古今東西・老若男女に通用する、最も汎用性の高いギャグの一つだろう。脱ぐだけでは芸にならないが、まあ脱いで何かすれば、ちょっとは面白い。



実際、サークルの飲み会などでも、「脱ぐ」を選択する割合は凄かった。次から次へと脱いでいく。脱いで脱いで脱ぎまくる。まるで脱衣所だ。



服を脱ぎ、真っ裸になって何かをする。服を脱ぐと上半身に何かしら文字が書いてある。こういった、「脱ぐ」に絡めたネタは定番中の定番であり、決して真新しいものではない。結果的に、極めて無難な笑いをもたらす。



脱ぐ…か。悪くはないが、何かヒネりがないな…。もう脱ぐのは見飽きたな…。実際のところ、誰しもがそう思っている。



そこで僕から彼に提案させて頂きたいのは、この「宴会芸と言ったら脱ぐ」という常識を逆手にとった、究極の宴会芸、その名も











「着る」だ。









「着る」という、究極の一発ギャグ
さて、この「着る」というのが、どのように宴会芸になるのか。まだ想像もついていないだろうと思う。手順はこうだ。



まず、宴会芸の日にち、それが忘年会の日でも良いし、決められた一発芸大会の日でも良い。この決められた宴会芸の日までの数カ月間、あなたは徹底して「全裸」で行動する。



ここがそれなりのハードルになることは分かっているが、宴会芸で圧倒的な成果を出すために必要不可欠な、大切な期間だ。どうにか踏ん張って、ひたすら全裸で行動して欲しい。全裸で出社し、全裸で仕事をする。全裸マン。



服を全く着ること無く会社に現れたあなたを見て、上司は何と言うだろうか?「どっひゃ〜」と言うだろう。間違いない。どっひゃ〜と言いながら腰を抜かして椅子から転げ落ちるに違いない。




あなたはドン引きする人々を全く無視し、え? サルもゴリラも全裸なのに、なに服とか着ちゃってるんすか? しょーもな、という感じの理論を展開する。筋が通っているようで全く通っていない。狂気の猥褻物陳列罪人間。





「全裸で生活する会社員」の噂は、恐らくあなたが思うよりも早く全社的に知れ渡ることになる。そうですね、半日もあれば、5万人規模の会社でもほぼ全員が知っているくらいには話題になるでしょう。全裸というのは、それくらいインパクトのある活動だ。





さあ、そんな中迎えた一発芸大会の日。ギャグを披露するあなたの同期が、次々と満を持して服を脱いでいくが、どうも、あまり笑いが起きていない。なぜか。それは観客席で見ているあなたという孤高のビジネスマンが、自分の番でもないのに、既に「全裸」だからだ。



既に鬼のように全裸なやつがいる環境で遅ればせながら全裸になってみたところで、大した笑いは起こらない。あなたの徹底した全裸戦略により、全裸という活動の市場価値自体が下がったのである。



受給バランスという観点から纏め直すと、これはあなたがマーケットに対して過剰に「全裸」を供給したことにより、全裸が歪に余剰なバランスになってしまっている状態だ。全裸過多。そこであなたの番になる。



ドヤ顔で服を脱ぎ散っていった、その同期達の屍を踏みつぶすように、ハナから思いっきり全裸のあなたは、ゆっくりと壇上に上がる。脱ぐことで笑いがとれると勘違いした輩による爆死ショーは、あなたという怪物を際立たせるための、前座だったのだ。





今、スポットライトは、あなただけを照らしている。先輩社員達が、全裸のあなたの動きを食い入るように見つめている。こいつ、何をするんだ。もう脱ぐ服はないぞ。あなたは何も言わず、突如として、服を… 着る!







「き… 着た…?!?!?」「…あ…あいつ… 宴会芸で… 服を… 着た…だと!?」「ぬぅぉおおお!!」





脱ぐがベースとなっていた宴会芸の空間において、あなたの「着る」はまさに逆張りのイノベーティブな一手であり、観客はスタンディングオベーション、涙を流しながら狂喜乱舞。



「なんて斬新なんだ… まさか、宴会芸で服を、『着る』とは…」「あいつ… この瞬間ために、ずっと脱いでたのか…!」「予想だにしていなかった… やられたぜ…!!!」 「oh my gosh, men!!!」





あなたの「着る」という独創的なギャグは伝説の宴会芸として殿堂入りし、あなたは一夜にして圧倒的な地位と尋常ではない程の名誉を手にしたのだ。








さて以上の説明で、「脱ぐ」を逆手にとった「着る」により一躍スターダムにのし上がれる仕組みが分かったと思う。その後の世界の話をしたい。



「脱ぐ」が当たり前となり、「脱ぐ」の価値が落ちていた宴会芸市場にあなたが投下した「着る」というアトミックボムは、人々の常識をブチ壊すことになった。



伝説のギャグ「着る」の前と後で、宴会芸の、いや人類の歴史は、完全に二分されたと言って良い。







その後、あなたの周りの多くの人々は来たる宴会芸の日に備え、いつ何時たりとも「着られる」よう、日々を全裸で過ごすようになる。世界が、あなたというカリスマを追随するのだ。



サルもゴリラもオランウータンも全裸なのに、なに、服とか着ちゃってるんすか? 普通に考えて全裸でしょ。これこそが人々の基本的なスタンス。無論、会社にいる人達も、全て全裸。会社と言えば全裸。全裸が礼儀。



それほどまでに全裸な環境において、宴会芸の定番はと言えば勿論、「ドヤ着衣」である。かつてあなたが放った斬新なギャグが、時を経てデファクトスタンダードとなった。



人前に出てきて、突如として着衣。普段全裸なのに、突然……着る! いつも脱いでるのに急に着ると、なんか、ちょっとだけ面白い。これが最もオーソドックスな、汎用性の高いギャグだ。





さて、もうお気づきかもしれないが、この状況こそがチャンスである。人々を出し抜き度肝を抜かす準備は整った。



全員が当然のように全裸で出社している中、あなたというイノベーターは意を決し、なんと「服を着た状態で」出社するのだ。



服を着た状態で会社に現れたあなたを見て、当然のように真っ裸の上司は股間を丸出しにしながら、何と言うだろうか?「どっひゃ〜」と言うだろう。間違いない。股間丸出しでどっひゃ〜と言いながら腰を抜かして椅子から転げ落ちて股間を丸出しにするに違いない。





そして一発芸大会の日が訪れる。あなたの前にギャグを披露する同期が全裸で壇上にあがり次々と服を着ていくが、どうも、あまり笑いが起きていない。なぜか。それは観客席で見ているあなたという孤高のビジネスマンが、自分の番でもないのに、既に「服を着ている」からだ!!!





既に鬼のように服を着ているやつがいる環境で遅ればせながら服を着てみたところで、大した笑いは起こらない。あなたの徹底した着衣戦略により、着衣という活動の市場価値自体が下がったのである。そこであなたの番が訪れる。







ドヤ顔で着衣し散っていった、安易な服にまみれた同期達の屍を踏みつぶすように、はなからバッチリ服を着ているあなたはゆっくりと壇上に上がる。着ることで笑いがとれると勘違いした輩による爆死ショーは、この瞬間、あなたという怪物を輝かせるための… 前座だったのだ!!!!





今、スポットライトは、あなただけを照らしている。先輩社員達が、あなたの動きを食い入るように見つめている。なんだ、あいつどうするつもりだ。もう着る服はないぞ……。あなたは何も言わず、突如として、服を…… 服を…… 服を… 



 

 

 

 

 

脱ぐ!!!!!!







 

「ぬ… 脱いだ…!?!!?!! だと…?!?!?」「…あ…あいつ… 服を脱いだぞ…!!?!?」「おい、どうなってんだ?!!?!? オいおいおい!?!」「あいつ、まさか、このためにずっと着てたのか!?!?!?」「ohhhhh Jesus Christttt, this is a pen, and he is Tom!!!!」







つまり、
何が言いたいのか。この話で本当に伝えたいのは、「万物は流転する」ということである。「脱ぐ」と「着る」は、どちらかがどちらかの上位に位置するというわけではない。



古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスが提言した通り、あらゆる物事、この宇宙に存在する全ては絶えず生成と消滅を繰り返すのである。その循環からは、何人たりとも逃れることは出来ない。



脱衣と着衣。それは「昼」と「夜」のように表裏一体であり、更に言えば「生」と「死」のよう循環的な関係にある。



人は脱ぎ、そして人は着る。





「宴会芸」という一見無駄に見える文化は、人間の逃れることの出来ない森羅万象の本質を、ただ、静かに伝えんとしているのだ。







…と、ここまで宴会芸について深掘りすれば、もうワケが分からなくなって宴会芸への精神的な抵抗が薄れるんじゃないかと思うんです。宴会芸が、「森羅万象の本質」を伝えようとしてた。その場合、もう、恥ずかしいとか言ってる場合ではないでしょう。それを、宴会芸を怖がる人に伝えたい

 


まぁ今日はこんな感じです。